2017年07月24日

安倍政権の崩落は地方選から始まる

国政選挙の勝利と内閣支持率の高さが安倍政権の支えとなり「安倍1強」を作りだした。
 
それは、国会での安倍晋三首相のこんな横柄な発言に現れていた。
 
 「安倍内閣支持率は53%もある。民進党の政党支持率はどのくらいあるのか?」 
 
そして選挙の度に「今アベノミクスを後戻りさせていいのか」と安倍晋三首相は叫び、今の生活がこれ以上悪くなったら大変だ、と思っていた国民は自民党議員を当選させ続けた。
 
しかし選挙が終わると「特定秘密保護法」が現れ、そのあとは「戦争法」、「共謀罪」と続き、国民はそんなものを作るために全権委任したのではないと思い始めた。
 
そしてその国民の怒りをぶつけるのは選挙しかなく、7月2日の都議選が格好の的になった。
 
おそらく自民党公認の都議候補の中には地元のために長年汗を流した議員もいたのだろうが、「自民党」という都民の標的には無残にも討死し、自民党全体が歴史的大敗を喫したわけであった。
 
都民がその怒りを選挙で意思表示すれば変わる、という実績が徐々に地方にも浸透してきている。
 
その最初が昨日の仙台市長選挙であった。  
    
<仙台市長選>郡和子氏が初当選
 2017年07月23日日曜日 河北新報
 任期満了に伴う仙台市長選は23日、投票が行われ、即日開票の結果、いずれも無所属新人で、元衆院議員の郡和子氏(60)が会社社長の菅原裕典氏(57)、元衆院議員の林宙紀氏(39)、元衆院議員の大久保三代氏(40)を破り、初当選した。女性市長は2期目の現職奥山恵美子氏(66)に続き2人目。東日本大震災の「ポスト復興」期に入った東北の最大都市で地域の将来像をどう描き、新たなかじ取り役を誰に託すのかが問われた。
 選挙戦は自民、公明、日本のこころの各党が支持する菅原氏と、民進、共産、社民、自由の野党各党が支持・支援する郡氏の与野党対決の構図が軸となった。自民党は東京都議選の惨敗に続く大型地方選での敗北となり、支持率続落にあえぐ安倍政権へのさらなる打撃となることは必至だ。
 投票率は44・52%で、過去最低だった前回を14・41ポイント上回った
◎仙台市長選/得票/選管最終
郡  和子氏 165,452
菅原 裕典氏 148,993
林  宙紀氏  61,647
大久保三代氏   8,924
 
そしてこの選挙結果の後に毎日新聞が世論調査結果を発表した。
 
<内閣支持率 続落26% 『総裁3選』62%否定>
 毎日新聞 2017年7月24日 02時20分 
 毎日新聞は22、23両日、全国世論調査を実施した。安倍内閣の支持率は26%で、6月の前回調査から10ポイント減。不支持率は12ポイント増の56%だった。支持率が20%台になったのは2012年12月の第2次安倍内閣発足後、初めて。安倍晋三首相の自民党総裁任期が来年9月に終わることを踏まえ、「代わった方がよい」との回答は62%(3月調査は41%)で、3期目も「総裁を続けた方がよい」の23%(同45%)を大きく上回った。首相の政権運営は厳しさを増している。
 首相の友人が理事長を務める学校法人「加計(かけ)学園」による国家戦略特区を利用した獣医学部新設計画を巡り、政府のこれまでの説明を「信用できない」は76%に達し、「信用できる」は11%。内閣支持層でも「信用できない」(49%)が「信用できる」(36%)よりも多かった。首相は24、25両日、衆参両院予算委員会の閉会中審査で、加計学園の計画に自身が関与していないことを説明する考えだ。
 調査では「安倍1強」の政治状況についても聞いた。「自民党から安倍首相に代わる人が出てきてほしい」が31%で最も多く、「野党から首相に対抗できる人が出てきてほしい」は25%、「新しい政党や政治団体から首相に対抗できる人が出てきてほしい」は23%。「安倍首相が強いままでよい」は7%にとどまった。自民支持層では「安倍首相に代わる人」が51%を占め、「ポスト安倍」への期待をうかがわせた。
 支持率は2カ月連続で10ポイント下落し、与党内では憲法改正論議への影響を懸念する声も出始めた。今回の調査で、首相が目指す20年の改正憲法施行について、議論を「急ぐ必要はない」は66%、「急ぐべきだ」は22%。首相が5月に改憲方針を表明した後、慎重論は調査のたびに増えている。憲法9条の1項と2項をそのままにして、自衛隊の存在を明記する首相の改正案に関しては、「反対」が41%(前回比5ポイント増)、「賛成」が25%(同2ポイント減)、「わからない」が27%(同3ポイント減)だった。
 政党支持率は、自民25%▽民進5%▽公明3%▽共産5%▽維新2%−−など。「支持政党はない」と答えた無党派は52%だった。【池乗有衣】
調査の方法
 7月22、23日の2日間、コンピューターで無作為に数字を組み合わせて作った電話番号に、調査員が電話をかけるRDS法で調査した。福島第1原発事故で帰還困難区域などに指定されている市町村と、九州北部豪雨で被害を受けた福岡、大分両県の一部市村の電話番号は除いた。18歳以上のいる1627世帯から、1073人の回答を得た。回答率は66%。 
 
「二度聞きをしないことと内閣への好感を誘導するような質問のしかたをしないことの2つの理由によって、常に内閣支持率が低く出ることで定評のある毎日新聞の世論調査結果」であったが、質問と「誘導」のしかたを変えれば、「内閣支持率39%に続落 『政権におごり』65% 本社世論調査」(日本経済新聞)という、13ポイントも差が出てしまう。
 
それでも今までは世論調査結果が出ても「一喜一憂することではない」と強きであったが、さすがに「26%」という数字を前には、「内閣支持率続落 菅氏『謙虚に受け止める』」と正直に認めざるを得なかった。
 
しかし、この下落続きの内閣支持率の根本原因が「安倍晋三」にあるため、「経済再生に取り組んで政権の信頼回復に努める考えを示し」てもムダであろう。
    
午前9時から始まった衆院での閉会中予算委員会では安倍晋三首相が見せかけの冗長な「丁寧な説明」を行う姿勢を見せるのだろうが、加計学園疑惑に関しては、昨日の「今治の地元から発せられる加計学園のいかがわしさ」の中で、「加計学園の学校はどれも赤字ばかり」なので、その赤字の埋め合わせにどうしても獣医学部の新設が必要と加計孝太郎に泣きつかれたことが恐らくは事の真相らしいので、説明できるわけがない。
 
その加計学園のルーツに関して、「親子2代で教育を食い物にしてきた加計父子」で紹介した現代ビジネスの第2弾を紹介する。
 
<加計学園「重要機関」の顧問に名前を連ねていた、あの大物政治家>
 2017.07.24 現代ビジネス
 安倍総理と加計孝太郎理事長の深い関係が、行政の判断を左右したのではないか--加計学園の獣医学部新設をめぐる「疑惑」は、いまだ晴れない。
視点を変えて、加計学園の歴史を明らかにすることで、問題のありかを浮き彫りにする本レポート。第二部では、いかにして加計学園が初の大学新設に成功し、学校経営を「家業」として確立したかを追う。
(第一部「学園創立者・加計勉という男」はこちらから→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52291
億単位の私財をつぎ込んだ
その日は最高気温34度を超える、うだるような暑さだった。岡山市街地を一望できる小高い丘の上で、加計学園創設者の加計勉氏は蝉の声を聴きながら頭を垂れていた。
1961年8月27日、のちに岡山理科大学とその附属中高、そして加計学園本部が置かれることになる岡山市街地北側の半田山。ここに備中国一宮である吉備津神社から宮司を招き、学校法人加計学園が設立する最初の学校、岡山電機工業高校の地鎮祭と起工式が行われた。
勉氏と岡山県庁私学担当者とのやりとりは第一部にて詳述したが、氏が県に高校設置の申請書を提出したのは同年9月6日、県から認可が下りたのはその2週間後の同20日のことだ。学園による記録や、各種資料の中の関係者証言が正しければ、勉氏は申請書を提出する直前に工事を始めたことになる。
戦前は旧陸軍が所有していた半田山は、まだ草木が鬱蒼と生い茂る山林だった。この時の列席者は勉氏をはじめ、少数の学園関係者に限られ、式はごくひっそりと進んだ。
当時38歳の勉氏は、予備校経営で手にした数億円もの財をなげうってこの山を買った。のちに学園理事長となる長男・孝太郎氏は、このとき小学生。加計家は決して貧しいわけではなく、むしろ予備校事業の大成功によってかなり富裕だった。にもかかわらず、勉氏の事業計画を叶えるため、子供たちのおやつを買うのにも苦労するような耐乏生活を強いられていたという。
目指す開校期日は8ヵ月後の翌1962年4月に迫る。建設用地の造成と校舎建設は急ピッチで進められたが、生徒が集まらなければ話にならない。
勉氏の経営する予備校・広島英数学館から職員が応援に出て、岡山県下のみならず香川県や兵庫県でも説明会に奔走、入学試験は丘のふもとにある市立岡北中学校の校舎を借りて実施するという突貫工事ぶりだった。
地元ゼネコンとのつながり
明治期から倉敷紡績(現・クラボウ。クラレの母体となった企業)などの繊維産業を中心に発展してきた岡山県南部地域は、戦後は鉄鋼・石油化学などの重工業が急速に盛んになり、人口も急増していた。日本が高度成長期のとば口に立っていた当時、勉氏には「理系の学校は、これから必ず必要とされるようになる」という確信があった。
岡山電機工業高校の第1期入学者は247名。受験者数は定員の約7倍だったというから、かなりの高倍率だ。しかし勉氏にとって、工業高校の設立は「通過点」にすぎなかった。氏があらかじめ買い取った土地は約5万平方メートルだが、そのうち高校の用地に使われたのは2万2000平方メートルあまり。残りの土地は、宿願だった岡山理科大学建設のためにとっておいたのだ。
事実、高校の開学式典の席上で、勉氏は「この高校の運営が軌道に乗ったあかつきは、この地に大学設立を実現したい」と話し、列席者を驚かせている。その言葉通り、氏は高校開校の直後から大学設立に向けて動き始める。『加計学園創立二十周年記念誌』(1985年)より、本人の述懐をひこう。
〈高等学校よりもむしろ大学を設立するということが当初からの狙いでした。本来ならば、高等学校が三年生まで在籍するようになってから大学を作るというのが普通のやり方なのですが、今述べた理由により、大学も同時に作りたいと思っておりました。
一言で大学を作ると申しましても、教授陣容を整えないといけませんし、また、ばく大な資産の投下も必要です。その当時、私の所有していた約一万坪の土地全部の他に、いろいろなものを含め、完成までに五億円を要すると言われておりました〉
大学校舎の建設については、1963年9月に地元の建設会社大本組と契約を交わした。この大本組は現在、愛媛県今治市に建設中の岡山理科大学獣医学部の校舎建設も請け負っている、岡山県を代表するゼネコンである。真新しい高校の校舎の横で、トラックと重機が山腹を行き来する中、1期生たちは勉学に励まねばならなかった。
県知事への「根回し」
岡山理科大学の設立費用5億円を現在の貨幣価値に換算すると、大まかに言って10億円以上になる。だが勉氏の回顧録を見る限り、かなりの部分を私費でまかなったにもかかわらず、金銭面で苦労した形跡はほとんど記されていない。むしろ行政への認可申請、そして教員確保に走り回ったことが強調されている。
〈当時、皆さんから「なぜ理学部を作るのか、金ばかりかかって損益の合わないものをなぜ作るのか」とよく言われました。私自身の出身が(広島)文理科大学の数学科ですので、頭の中ではそういうものをめざしていましたが、 (中略)文部省の方では新しい学部を作るというのは、認可が非常にむずかしいとの話もありました。そこで理学部の中に応用的な学科を作ろうと考えました〉(『二十周年記念誌』より)
現在の「加計学園問題」にいったん話を戻すと、今治市で新設予定の岡山理科大学獣医学部が、2015年6月に閣議決定された「日本再興戦略改訂2015」にある、いわゆる「石破4条件」を満たしていないのではないか、という指摘が野党などから上がっている。これは、当時の国家戦略特区担当大臣・石破茂氏の下で決められた、「獣医師養成系大学・学部の新設」についての縛りだ。
その中に、「既存の大学・学部では対応困難な場合」という条件がある。要するに、「大学を新設したいなら、今ある大学とは違った新味を出せ」というわけだ。約半世紀前の岡山理科大学開設に際しても、文部省は加計勉氏に、同じような要求をしたといえる。
勉氏は手始めに設置を決めた理学部内に、化学科と「応用数学科」の2学科を設けることで、大学新設のための審査を切り抜けようと考えた。当時の働きぶりは、部下・同僚たちから「昼夜を分かたない阿修羅の如き活動」と評される猛烈なものだったという。
ただ、加計学園のまとめた当時の記録には、大学開設に至る経緯そのものは、さほど詳しく述べられていない。特筆すべきものがあるとすれば、広島大学名誉教授(当時)で、勉氏の広島文理科大学数学科在籍時の恩師だった戸田清氏の回想である。戸田氏は、加計氏の相談に応じ、県知事に話を伝えた--そう明かしているのだ。
〈加計氏から大学創設の考えを耳にした。広島で既設の大学と競合することの不利。京阪神、四国、山陰に近く、水島臨海工業地帯に政治生命をかけている知事のいる岡山。こちらを選ぶべきではないかと述べた記憶がある。加計氏の参考になったかも知れない。(岡山県)知事にも、大学設置の計画のあること(を伝え)、もし、そうときまれば、何分の援助協力を要請した記憶もある〉(『二十周年記念誌』より)
行政に対する勉氏の根回しと、政治的嗅覚の一端が垣間見える記述といえるだろう。
あの大物議員が顧問に
岡山理科大学は、文部省への申請からわずか1年半後、東京五輪開催を控えた1964年春に開学した。それに伴い、先行して開校していた岡山電機工業高校は「岡山理科大学附属高校」に改称された。岡山理科大学の初年度の入学者は143名と多くはなかったが、翌年以降は新学科を続々と増設し、学生数も右肩上がりに増えていった。
勉氏はのちに、「僕は教育者ではない。教育実業家だ」と述べたという(鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』より)。予備校経営から教育事業に参入し、資金を確保して、ついに学生時代から夢見た大学開設までこぎつけた。重化学工業の発展という時代の要請に応え、学生を確保するために、学部は需要の見込まれる理科系に絞りこんだ。確かに勉氏は、単なる教育者にとどまらない「ビジネスセンス」を持ち合わせていた。
1970年代以降、成長期に入った加計学園・岡山理科大学には、現在の報道でも名前の出てくる人物がちらほらと見え始める。以下は、加計家の人々と学園関係者の「人名録」である。
現在、加計学園理事を務め、2016年まで系列校の千葉科学大学学長を務める赤木靖春氏は、当時は学園の一職員だった。氏は1980年代、岡山県北の蒜山(ひるぜん)高原に開設された附属研究施設「蒜山研究所・学舎」の所長を務めている。
一方、注目したいのは1970年代以降に学園が力を入れ始めた海外交流事業だ。本稿でもたびたび引用している、1985年刊行の『加計学園二十周年記念誌』には、当時の学園本部の陣容が掲載されている。中でもひときわ目を引くのが「国際交流局」。局長は、現在は学園理事長を務める加計孝太郎氏(当時は「晃太郎」と名乗っていた)、そして顧問には、衆院議員の逢沢一郎氏の名前がある。
逢沢氏といえば、従兄が経営する岡山県の建設会社「アイサワ工業」が、今治市の獣医学部建設工事を前出の大本組とともに受注したことが報じられている。1985年当時、逢沢氏は松下政経塾を卒塾したばかりで、衆議院選挙で初当選したのは翌1986年のことだ。逢沢氏と加計孝太郎氏はほぼ同世代。少なくとも30年あまり前には、両者はそれなりの親交を持っていたはずだ。
現理事長・加計孝太郎氏の1990年の寄稿文(『広島加計学園創立十周年記念誌』より)
30代から40歳ごろの孝太郎氏は、国際交流局長と副理事長を兼任していた。学園の公式刊行物には、当時から必ずと言っていいほど寄稿文を寄せ、国際交流事業がいかに大切かを説いている。
〈 (当時の)外務大臣、安倍晋太郎氏も言っておられますが、日本はアメリカの袖の下に隠れていれば、平和と安全と守ることができ、世界の中で発展して行くことができたという受身の形から、言いたいことははっきり言い、世界の中で日本の役割を積極的に果たして行くという形に展開して行かなければと思います。どうも
国際的な舞台で何らかの決定を迫られ、例えば、拒否したい場合、Yes, but……,という表現から、No. Because……, という表現に変えて行くべきであると思います〉(『二十周年記念誌』所収の孝太郎氏の寄稿文「広い視野にたった交流を」より)
2017年のいま、孝太郎氏の長男・加計役(まもる)氏は加計学園の副理事長や広島加計学園の理事長を務め、次男・加計悟氏は学園系列校の倉敷芸術科学大学副学長と、同大学の獣医学系学科である動物生命科学科の講師を兼任している。
父の孝太郎氏がかつて岡山理科大学などの系列校で教鞭をとっていた形跡はないが、40代にさしかかっていた1992年の時点で、孝太郎氏も加計学園副理事長・国際交流局長のほかに、学校法人広島加計学園理事長、広島英数学館・福山英数学館館長のポストを得ていた。
当時からすでに、加計学園は現在と同じく「家族経営」の様相を呈しつつあったのだ。
(7月27日公開予定の第三部に続く)
 
加計孝太郎も安倍晋三も共に世襲2世なのだが、どうやらその中身はかなり質的に異なる。
 
安倍晋三は勉強嫌いで小学校から大学までの一貫校に入っていたものの、小学校から中学校へ進学するにはかなりの学力不足で当時の自民党の平沢勝栄が家庭教師を務めていたことは有名な話である。
 
おそらく安倍晋三と加計孝太郎は「腹心の友」と呼ばれているらしいが、二人のレベルはかなり違うようである。
 
父の加計勉のやり方をつぶさに見て育った加計孝太郎は政治家の使い方に非常に長けていたのであろう。
 
そんな加計孝太郎にうまく取り入れられ、「分かった、ボクちゃんがやってやる」と軽く考えてやったことが、今頃になって大事になてしまい右往左往しているのが安倍晋三ではないだろうか、とオジサンは思う。

 
posted by 定年オジサン at 11:33| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 安倍晋三 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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