2017年07月31日

掘った墓穴が段々大きくなってくる

先週の閉会中の審査が終了した翌日に、「大山鳴動、ついに黒いネズミが墓穴を掘る」とのつぶやきの中でこう書いた。
 
2013年11月から2016年12月24日の間で、「加計学園の獣医学部新設計画を把握」していれば、当然、「国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範」の「(6)関係業者との接触等倫理の保持に万全を期するため、
@ 関係業者との接触に当たっては、供応接待を受けること、職務に関連して贈物や便宜供与を受けること等であって国民の疑惑を招くような行為をしてはならない。」に明らかに抵触しているわけで、それを逃れるために見え透いた虚偽答弁をしてしまった姑息な安倍晋三首相は、自ら深い墓穴を掘ってしまった
 
その後、「殿の一大事」とばかりに菅義偉官房長官が、「<加計学園>理事長との安倍首相会食『大臣規範に抵触せず』」の中で、「(首相は国会答弁で)互いにおごったり、おごられたりしていると言っていた。通常の交際まで大臣規範は禁止していない」とかばっていたが、「通常の交際」とは相手が私人で「関係業者」ではない人物との交際のことであろう。
 
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【毎日新聞より】
 
浅薄な安倍晋三首相は当初、「互いにおごったり、おごられたりしている」ごく普通の友人に過ぎないことを強調したつもりであった。
 
当然、その時点では安倍晋三首相の頭の中には「「国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範」の詳細は全く入っていなかったのであろう。
 
その辺りを詳しく報道した記事があった。
 
<「加計知ったのは1月20日」 首相「大臣規範」意識か 関係者の供応禁止>
 2017年7月31日 朝刊 東京新聞
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 安倍晋三首相が衆参の予算委員会での閉会中審査で、学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設計画を知ったのは学園が事業者に決まった今年1月20日と説明し、波紋を広げている。首相は学園の加計孝太郎理事長を「腹心の友」と認める仲のため、業者による供応などを禁じた「大臣規範」への抵触を恐れたのではないかとの指摘が出ている。学部新設を申請した自治体にも疑問を示す声がある。 (清水俊介、安藤美由紀)
 大臣規範は、閣僚や副大臣らの政治的中立性を確保するため、大規模な政治資金パーティーの自粛などを定める。罰則はない。「関係業者」との接触では、供応接待や便宜供与を受けることで「国民の疑惑を招くような行為」を禁じる。
 首相は加計氏と30年来の友人。第2次安倍内閣発足後も会食などを重ね「先方にごちそうしてもらうこともある」と答弁した。
 首相は国家戦略特区諮問会議の議長で、特区や事業者を認定する責任者。獣医学部新設の事業者として応募した加計氏は「関係業者」に当たる可能性がある。
 首相が加計氏と最後に会ったのは昨年12月24日。事業者が加計学園に決まった今年1月20日に初めて学園の計画を知ったと答弁した。その前は知らなかったとすれば、過去の会食は関係業者からの供応に当たらないと考えたかもしれない。参院予算委では、日本維新の会の浅田均氏が「大臣規範に抵触するから(以前から計画を知っていたと)認めないのか」と追及した。
 菅義偉(すがよしひで)官房長官は今月28日の記者会見で「大臣規範は通常の交際まで禁止していない」と、首相と加計氏の会食は大臣規範違反ではないと強調した。
 岩井奉信(ともあき)日本大教授(政治学)は「古い友達だが、加計氏はやはり利害関係者で、首相は決定権者。大臣規範に抵触する可能性が高い」と指摘。大臣規範に関し「パーティーも平然と行われ空文化している感がある」と再確認を求めた。
◆官僚用意文書にはなし
 閉会中審査のために内閣府が用意した安倍首相の答弁書を本紙は入手したが、そこには「1月20日」の文言は書かれていない。誰がどのような判断で「1月20日」を答弁に加えたのだろうか。
 国家戦略特区による獣医学部は形式上、新設したい事業者を公募で選ぶやり方を取っていた。愛媛県今治市の申請でも加計学園が前提ではないという建前だが、今年1月の公募に応じたのは加計学園だけだった。
 申請から公募までの1年半、獣医学部を取り上げた特区の会議は10回以上あったが、議事要旨や配布資料に加計学園の名は出てこない。首相が出席する諮問会議で初めて登場するのが、加計学園が事業者に選ばれた1月20日だった。
 政府関係者によると、どの時点で加計学園の名前が登場するかは、内閣府が国会質問に備えて以前から調べており、首相側にも伝えていた可能性があるという。支持率が下落する中、以前のような強弁は通じない。野党に「いつ」と迫られた首相が、疑念を払拭(ふっしょく)するため、窮余の策として「1月20日」で予防線を張ろうとした見方もできる。
 首相答弁と国家戦略特区資料との矛盾はない。しかし、加戸守行前愛媛県知事が閉会中審査で「12年間、加計ありきでやってきた」と語ったように、今治市と加計学園が、ともに獣医学部新設を目指していたのは周知の事実だったはずだ。
 07年から今治市が国に申請していた構造改革特区の提案書には、事業主体として「加計学園」と明記されていたこともある。市関係者は「首相が知らないなんてありえない。身の潔白を強調しようとするあまり、かえって問題をこじらせている。やましいことがないなら堂々と答弁してほしかった」と話す。 (中沢誠)
 
潔さが欠落しているところが安倍晋三という男の特徴である。

たしかに24日の安倍晋三首相の該当箇所の答弁は下を向いて答弁書を読み上げていた。
 
「首相答弁と国家戦略特区資料との矛盾はない」ように、昨年の12月24日の「クリスマスイブ。男たちの悪巧み」以降は、安倍晋三首相は加計孝太郎との接触は避けているので、今年の1月20日ならば問題はない、と安易に考えて入り知恵した輩がいたのであろう。
 
しかしこんな姑息なことは一般国民には通用しないことは言うまでもない。
 
むしろ、ますますいかがわしさが強くなっただけである。
 
そんな腹心の友との関係の源はその父である加計勉にあると、彼の生い立ちと「教育ビジネス」について現代ビジネスは過去2回にわたってルポしており、今回は完結編である。   
 
<加計学園の急成長を支えた「特異なビジネス」と「政界人脈」>
 2017.07.31 現代ビジネス
 加計学園をめぐる「疑惑」は、衆参両院の閉会中審議を経ても決着をみることはなかった。学園の成り立ちを追った第一部、第二部に続き、第三部では「教育実業家」を自認した加計勉氏、そしてその跡を継いだ孝太郎氏らの「ビジネス」を読み解く。
5人の親族たち
戦後まもなく定められた私立学校法には、次のような規定がある。
〈役員のうちには、各役員について、その配偶者又は三親等以内の親族が一人を超えて含まれることになってはならない〉
つまり、ひとつの学校法人につき、理事以上の役職に就ける親族は最大2人まで、ということである。「同族経営化」を未然に防ぐための決まりだ。もっとも、帝京大学グループ(冲永家)や近畿大学グループ(世耕家)など、創業家の親族が代々要職を占める大手私学法人は少なからず存在する。
現在の加計学園とそのグループ学校法人・社会福祉法人の役員には、加計孝太郎理事長、その息子である役(まもる)氏と悟氏、孝太郎氏の姉である美也子氏、その息子である勇樹(勇輝)氏と、少なくとも5人の「三親等以内の親族」の名前がある。彼らは各人がそれぞれ別々の学校法人の理事長や役員を務めているため、そこに法的な問題はない。
とはいえ、創立者の加計勉氏が一代で築き上げた加計学園グループは、各法人がまるで「相続」されるかのようにして、今日まで歩んできた。例えば現在、加計学園が運営する倉敷芸術科学大学で副学長の要職を務める悟氏は、すでに報じられているように、同大学で獣医学系学科の講師を兼任している。
7月24・25日に行われた国会の閉会中審査では、「加計学園が今治市に獣医学部を新設することを、安倍総理がいつ知ったのか」さらに言えば「安倍総理が加計学園に何らかの便宜を図ったのか否か」という点のみがクローズアップされた。
だが一方で、こうした「同族経営」の私学に、国・自治体が多額の補助金を注ぎ込むことの是非は別に問われなければならないだろう。
「頼まれるから、後に引けない」
さて、加計勉氏から、長男・加計孝太郎氏への代替わりが見えてきた1990年代、加計学園はさらなる拡大路線を歩み始めた。平成になってグループが新設した学校・関連施設新設を列挙してみよう。
加計学園本体が運営する学校に(加計)、姉妹法人の高梁学園(2010年に順正学園に改称)が運営する学校・施設に(高梁)、関連法人の英数学館が運営する学校に(英数)、その他には(その他)と付記した。
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学園創立者で孝太郎氏の父・加計勉氏は理事長を務めていた1996年、日本経済新聞によるインタビューで、記者の「なぜ、こんなに(学校新設に)積極的なのか」という率直な質問に答えている。
周知の通り、このころ日本の景気は下り坂にさしかかっていた。にもかかわらず、加計学園グループがわずか5年の間に吉備国際大学、倉敷芸術科学大学という2つの大学を新設したことを、世間は驚きとともに受け止めていたのだ。
〈無理をして拡大しているわけではない。県や市から要請があり、地元がなん十億円という資金を投じて用地買収、整備などの準備もしてくれるから後に引けなくなる。私も頼まれると『ひと肌脱がなくては』というタイプではある〉
さらにこの時、勉氏は大学新設の「戦略」や「勘どころ」についても明かしている。
〈(記者)ーー(大学に)個性があれば文部省も認めてくれる?
個性に加えて、時代に対応できているかどうかだ。コンピューター関連の学部にしても、一時は関心が高まったが、もうこの学部、学科はそろった感じだ。いまの人気は『看護』『療法』などで、宮崎でもこうした学科を設ける(注・その後の宮崎での経緯は後述)。
ーー学校経営のマーケティングが不可欠ということ?
そう。時代、社会のニーズから、地域の進学率、大学数、学部の性格などを綿密にみていけば見通しはつく。それでこそ時代に合った人材を養成できる〉
勉氏が自ら語っているように、1990年代以降、加計学園は時流に乗って看護系・福祉系の学校・学部学科を増やすなどの施策を打ち、急拡大を遂げていった。もちろん、誘致する自治体側の希望に学園側が応えようとしていたこと、また学園が打ち出す「ニーズに合わせた教育の提供」が、学園自身の興隆に寄与しただけでなく、地域や社会に対する貢献にもなったことを疑う余地はないだろう。
ただ、その事業の中には少なからぬ額の税金がなし崩し的に投じられた事例や、あるいはその是非が地元で激しい論争を招いた事例もある。
県知事が理事長の「吉備高原学園」
加計学園が本拠地を置く岡山県の行政を語るうえで決して無視できないのが、1972年から1996年、6期の長きにわたって県知事を務めた長野士郎氏だ。元内務官僚・自治官僚の長野氏は、戦後のいわゆる「昭和の大合併」を主導し、「地方自治の神様」の異名をとる辣腕官僚だった。
その長野氏が、岡山県知事就任直後にぶち上げた目玉政策が「吉備高原都市構想」である。岡山県中部に横たわる吉備高原の山中に、当時注目されていたバイオ関連企業などを誘致、「テクノポリス」と呼ばれる一大都市圏を作り上げるという壮大な計画で、構想委員会には、SF作家の小松左京氏など著名な識者が名を連ねた。
計画区域とされた土地は1800ヘクタール(東京ドーム385個分)、その中に「産業区」「居住区」「農用区」「センター区」など7つの区画を設ける。最終的な見込み人口は3万人、総事業費は745億円で、1980年代半ばから断続的に開発が始まった。
この吉備高原都市は「人工都市」である以上、そこには学校も必要になる。構想の中の教育部門を担当したのが加計学園だった。
区画北側の山腹に、全寮制の「吉備高原学園高校」が開校したのは1991年。運営は岡山県などの地元自治体と加計学園が共同出資する第三セクター方式で、理事長に長野知事、学園長に勉氏が就任するという、全国を見渡しても前例のない「知事肝いり」の事業だった。
約50億円の学校建設費用は全額岡山県がもち、法人設立費用は県が2750万円、加計学園が2000万円を負担したという。もちろん、学校職員は大半が加計学園からやってきている。
全寮制・単位制という珍しいシステムを採用した吉備高原学園高校には、当初から意図していたわけではなかったが、他の学校に馴染めなかった不登校の生徒、中退経験者といった生徒がやがて全国から集まるようになった。
吉備高原都市構想には、中国銀行やバイオ企業の林原など、地元岡山を代表する企業も参画・出資していた。そうした中で、系列校でも唯一となる全寮制高校を開くことは、加計学園にとってもチャレンジングな事業であったことは間違いない。しかし--。
バブル崩壊で、公共事業費の大盤振る舞いを続けた長野知事の県政はあっという間に行き詰まった。気がつけば岡山県は全国最悪の財政難に悩まされるようになり、歳出を削らなければ「財政再建団体」転落、つまり破綻も避けられない情勢となった。県民は「野放図なハコモノ投資を行った長野知事の責任だ」と追及の声をあげた。
吉備高原都市構想も頓挫した。町の建設開始から10年が経っても、住宅区画はほとんどが売れ残り、人口はわずか2000人にしか増えない。大企業や大手商業施設が進出してくるはずもなく、町の中心に建つ商業ビル「きびプラザ」はテナントが埋まらず歯抜け状態となった。1996年に長野氏が知事を引退するとともに、計画は根本から見直され、翌97年の県行政改革大綱で事実上凍結された。
現在も、同地にある吉備高原学園は加計孝太郎氏の次男・役氏が学園長、岡山県知事で元天満屋社長の伊原木隆太(いばらぎりゅうた)氏が理事長に就いて運営されている。2007年6月には、鈴木宗男元衆院議員の元秘書で、現在は加計学園系列校の千葉科学大学危機管理学部教授を務めるムウェテ・ムルアカ氏が訪れて講演を行った。
「地方移住」「田舎暮らし」が注目を浴びるようになった現在、かつてと比べ格安で土地が売り出されていることもあり、吉備高原都市には再び少しずつ移住者が増え始めているという。だが、依然として住宅区画には広大な空き地が広がっており、巨大な公共施設にも人の姿はまばらだ。
現在も吉備高原学園高校には300人あまりの生徒が在籍し、勉学やさまざまな活動に励んでいる。その教育的意義は確かにあるだろう。しかし同学園を包括し、加計勉氏もまたその夢を賭けた、壮大な未来都市構想そのものは多額の税金を呑み込んだすえ、未完に終わった。
市民を二分した「幻の大学構想」
加計学園グループの大学が地元の反対運動に直面し、開学を断念した前例もある。
加計学園が千葉県銚子市に千葉科学大学を開学した翌年の2005年春、孝太郎氏の姉・美也子氏が理事長を務めるグループ法人のひとつ高梁学園(現・順正学園)が、宮崎県日向市で4年制大学の新設計画を突如明らかにした。開学予定は2年後の2007年4月に設定された(注・今年に入り、美也子氏は「加計学園と順正学園は勉氏の没後、決裂した」と証言している)。
前述したインタビューで勉氏が語ったように、加計学園グループにとって、宮崎県は本拠地の岡山県・広島県以外で初進出を遂げた地である。美也子氏と、当時の日向市長の黒木健二氏は4月25日に合同記者会見を行った。
黒木氏は「大学の誘致を望む住民の声もあり、昨年(2004年)10月からアプローチしてきた。地域経済の起爆剤になる」(2005年4月26日、宮崎日日新聞)と、あくまで「大学誘致は地元の強い要望に応えるものだ」と強調した。
しかし、日向市の近隣自治体である延岡市には、すでに1999年に同じ高梁学園が運営する九州保健福祉大学が設けられていた。同大学が新設された際には、総事業費114億円のうち、79億9000万円を県と市が持っている。決して軽くはない負担である。さらなる大学新設に対し、同年夏の日向市議会では議員たちから疑問が噴出。黒木市長は「校舎建設費や運営費用への補助については、合併特例債の活用も検討しており、すでに国と協議も始めた」と説明している。
現在議論されている愛媛県今治市での岡山理科大学獣医学部新設においても、愛媛県と今治市が96億円を上限に建設費用を負担する予定になっており、この点も「加計学園問題」の一環をなしている。2005年当時に日向市が模索したという「合併特例債を大学建設費用に使う」とのプランは、要するに「市の名義で借金をしてまで大学を作る」ようなものだ。控えめに言っても異例の対応である。
およそ6万人の市民は、賛成派と反対派に割れた。反対派は市民団体「日向市まちづくり100人委員会」を結成し、「大学誘致の発表に至る経過を具体的に示すべき」という趣旨の質問書を市に提出。さらに、10月には4581人の署名を集め、大学設置の是非を問う住民投票の実施を要求した。
一方の賛成派陣営も、当時の市商工会議所会頭を代表に据えた「日向市の発展を考える会」を設け、1万人強の誘致賛成署名を集めた。
だが、高梁学園は反対派からの批判というよりも、こうした騒動が巻き起こったことそのものを重く見て、自ら計画を取り下げた。2005年11月末、加計美也子理事長と黒木市長は大学設置を断念すると発表。当時の美也子氏の説明はこう記録されている。
〈6万人の市で5000人近くが”反対”している中では、先生も学生も快適と言えない。設置にふさわしくない環境と判断した〉(2005年11月30日、読売新聞)
政治は誰のためにあるのか
今治市の岡山理科大学獣医学部新設について、それを推進する側の政府関係者、また前愛媛県知事の加戸守行氏は「獣医不足に悩む四国において、獣医学部の誘致は地元の悲願だった」との証言を国会で行った。ただ、それがどのような水準における「悲願」なのかーー行政関係者だけでなく、一般の市民も誘致を望んでいるのかーーは判然としない。
少なくとも、昨年11月に募集された獣医学部新設に関するパブリックコメントでは、寄せられた意見のうち約75%が獣医学部新設に反対するものだったという事実がある(なおパブリックコメントの関連資料は、今年1月18日に行われた国家戦略特区特別委員会で配布されている)。
このとき積極的に意見を寄せた中に、日本獣医師会関係者などの新設反対派が多かったおそれはある。とはいえ、その可能性を差し引いても、多額の税金を加計学園に提供することに慎重な一般の今治市民が、無視できるほど少ないとは思えない。
老境にさしかかった学園創立者・加計勉氏が、学校経営の一線を退き、長男・孝太郎氏に加計学園の、長女・美也子氏に高梁学園の理事長の座を譲ったのは2001年初めのことだった。そのおよそ7年後の2008年4月30日、勉氏は心不全でこの世を去った。享年85、1961年の加計学園誕生からまもなく半世紀が経とうとしていた。
5月3日に岡山市内で行われた葬儀には密葬にもかかわらず約1400人が参列し、安倍総理(当時は衆院議員)のほか、塩崎恭久・現厚労大臣ら、政財界の要人が全国から駆けつけている。
(勉氏の葬儀の様子「加計学園創立50周年記念誌」より)
そして2010年11月、現理事長・加計孝太郎氏のもとで、加計学園50周年記念行事が盛大に執り行われた。創立の地である岡山市内の岡山理科大学で行われたセレモニーには、かねて学園と関係の深い毎日新聞社大阪本社からヘリコプターが飛来し、花束と祝辞を投下するパフォーマンスで会場を沸かせたという。
第二次政権に返り咲く前の安倍総理は、このときも式に列席し、以下のような祝辞を寄せた。
〈理事長の孝太郎先生とは、30数年前にお会いして以来ずっと家族ぐるみで親しくしていただいております。毎年毎年新しいことに挑戦され、その名声を高めておられることに改めて敬意を評したいと思います〉(「加計学園創立50周年記念誌」2011年)
生前の勉氏は、2001年に名誉理事長に退いてからも学園への影響力を保っていたが、2008年の勉氏の死後は孝太郎氏が学園全体を統括する立場となった。
同年に千葉科学大学に新設された危機管理学研究科では、翌2009年から萩生田光一官房副長官が客員教授を務めていたことがすでに報じられている。また、2011年9月にタイの泰日工業大学と加計学園が教育交流協定を結んだ際には、安倍総理が自ら調印式に出席し、孝太郎氏とともに写真に収まった。
「加計学園創立50周年記念誌」(2012年)より
第一部では、勉氏が池田勇人元総理、宮沢喜一元総理ら政界の要人とのコネクションを重視していたことを記した。孝太郎氏と安倍総理の付き合いもまた、総理が自ら語っている通り、公私にわたる長く深いものだ。
もちろん勉氏にしろ孝太郎氏にしろ、宮澤氏や安倍総理と初めて知り合った時から、「この人は将来、総理大臣になる」と確信していたはずもないだろう。孝太郎氏は父・勉氏の「人を見る眼」を受け継いだのかもしれない。
現在、加計学園の運営する学校には約2万人の学生・生徒・児童が通い、1000人を超える教職員が働いている。「大企業」ともいえる規模の私立学校法人の円滑な運営に、政界や行政との連携が欠かせないことそれ自体は、致し方ないことだろう。その一方で、加計学園が半世紀以上にわたって展開してきた数々の教育事業には、すでに決して少なくない額の税金が費やされている。
今回の「加計学園問題」はわれわれ国民に、「政治とは、教育とは、いったい誰のためにあるのか」という根本的な問いを投げかけている。
 
「理事長の孝太郎先生とは、30数年前にお会いして以来ずっと家族ぐるみで親しくしていただいております。毎年毎年新しいことに挑戦され、その名声を高めておられることに改めて敬意を評したいと思います」と2011年の安倍晋三のことばをそのまま解釈すれば、「毎年毎年新しいことに挑戦」している中に、獣医学部新設も当然含まれており、いまさら「今年1月20日に初めて学園の計画を知った」という大嘘は誰も信じる者はいない、とオジサンは思う。

posted by 定年オジサン at 12:12| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 加計学園疑惑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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