2017年10月28日

黒子や振付師の大切さを教えてくれた緑の女帝


先日、「前進座10月公演 山本周五郎没後50年」という「柳橋物語」を三越劇場で観劇し、感激した一時を過ごした。
 
祖父が前進座の歌舞伎俳優藤川八蔵で、叔母に女優のいまむらいづみ、兄は俳優の藤川矢之輔、夫は前進座の俳優山崎辰三郎と、芸能家族の出身である今村文美が熱演した物語。
 
前進座は時代小説の作家、山本周五郎の18作品を舞台化してきた。
 
「柳橋物語」は1977年初演以来、約10年にわたり、各地を巡演したが、その後上演が途絶えた。
 
今回はファンの要望を受けての29年ぶりの再演であり、いまむらいづみが演じた主人公おせんを、新たに姪の今村文美が演じていた。
 
毎日新聞社学芸部編集委員で2001年度NHK教育テレビ「日本の伝統芸能・歌舞伎鑑賞入門」の講師を務めたこともある小玉祥子の評を簡単に紹介しておく。 
 
<演劇 前進座「柳橋物語」 真っすぐな姿、爽快>
 毎日新聞 2017年10月19日 東京夕刊 
 山本周五郎作品。田島栄脚色、十島英明演出。
 おせん(今村文美)は祖父の源六(津田恵一)と2人暮らしをしながら大坂で修業中の大工庄吉(渡会元之)の帰りを待ち、おせんを好いている若棟梁の幸太(嵐芳三郎)の申し出をはねつける。大火が起き、幸太はおせんと源六を連れて逃げるが、源六は死に、おせんは記憶を失う。
 庄吉の残した「待っていてくれ」の言葉に、おせんは縛られ、頑固者の源六の意地がさらに事態をこじらせる。誤解が誤解を生み、貧しい長屋の人々の屈折した正義感が、おせんを、より窮地に追い込む。火事場で拾った赤ん坊を育てるという善行すら裏目に出、めぐりあえた庄吉は赤ん坊を幸太の子と思い込み、おせんを捨てる。
 おせんの真っすぐさ、不器用ながらも一歩ずつ人間的に成長していく姿を今村が描き、記憶を取り戻し、自分の本当の思いに気づくようすが印象的で、爽快感がある。大店(おおだな)の娘から夜鷹にまで落ちぶれるおもん(浜名実貴)を思いやる姿が優しい。
 おせんにかなわぬ思いを持ち続け、わが身を犠牲にして救おうとする幸太を芳三郎がすがすがしく演じ、津田が職人気質をうまく見せた。浜名が境遇の変化にも揺らがない芯を表現。おせんを助ける勘十(姉川新之輔)、お常(田中世津子)夫婦、お常の兄の松造(武井茂)、長屋の女房の小林祥子ら周囲もそろう。
 
映画と異なり舞台劇では、一幕で数場面が変わるのだが、舞台が暗転中に多くのスタッフが黒子のように短時間で新しいセットを組み立てている。
 
しっかりとした原作と時代に合わせた脚色と優秀な演出が揃わなければ、長年にわたって巡演されることはできない。
 
素晴らしい公演を見た後に思い出したのが、1年前に「小池劇場」で大喝采を浴びた人物が、その後、優秀なスタッフもおかずに独演してしまい、遂には「憧れのヒロイン」から「敵役」に転がり落ちたという記事であった。   
 
<振付師なく「敵役」に 小池氏 過信が生んだ排除発言>
 2017年10月25日 朝刊 東京新聞
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 東京都知事との「二足のわらじ」で小池百合子氏が立ち上げた希望の党は、22日の衆院選で惨敗した。昨夏の知事選から旋風を巻き起こしてきた小池氏の誤算はどこにあったのか。誤算の先に待ち構える都政への影響は。転換点を迎えた「小池劇場」の揺らぎを関係者の証言から追った。
 当意即妙の受け答えで、厳しい質問をかわしてきた小池氏が、珍しく「敵前逃亡」する場面があった。9月30日、東京、大阪、愛知の三都府県知事が衆院選に向け、大阪市で連携を宣言した記者会見。質疑が始まると、小池氏は司会者にそっとメモを差し出した。
 紙切れには、一人のフリー記者を「あてないで」と走り書きされていたという。前日の会見で小池氏から、民進党合流組の一部を「排除いたします」との発言を引き出したその記者は、最前列で手を挙げていた。
 関係者によると、小池氏は食事がのどを通らないほど、この発言を悔いていた。希望の候補者たちは「排除発言が流れを変えた」と口をそろえた。だが、7月の都議選で民進から小池氏の地域政党「都民ファーストの会」に移った都議は「小池さんは都議選でも同じ事をしていた」と明かす。
 都民ファの選挙支援は民進離党が条件で、リベラル色の強い一部労組との関係も断ち切らせた。準備期間に余裕があった都議選では、この選別を小池氏の側近や民進系会派の幹部が水面下で進め、小池氏が演じる劇場の舞台を整えた。
 今回は急な衆院選で裏方の態勢を整える時間がなく、「振付師がいなかった」と周辺は言う。しがらみを嫌う小池氏は政界に仲間が少ない。すべてを一人で担った結果、表舞台で排他性が見える形になった。
 希望の結党会見では、小池氏をモデルにした女性が、男たちを従えてさっそうと歩くイメージ映像が流れた。ブレーンは「排除」という言葉を発した小池氏に「高揚感があったのでは」と振り返り、知事選からの成功体験が過信につながったとみる。
 都議選後、都民ファ役員の決定過程が不透明だったことや、新人都議への取材規制で火種が生まれた。衆院選の公示直前、初期メンバー二人が「都民ファこそブラックボックス」と批判して離党した。
 「排除」発言も相まって、小池氏のイメージはいつしか、改革の主役ではなく敵(かたき)役に変わっていった。知事選で小池氏の得票は291万票、都議選で都民ファの得票(追加公認を除く)は計188万票。今回、希望が東京の比例で得たのは130万票で、小選挙区の勝利は一人だけだった。
 衆院選の投開票日、出張先のパリで敗北宣言する小池氏を「逃亡中の女王のようだ」と皮肉まじりに報じる仏紙もあった。「言葉の使い方は本当に注意しなければ」と反省を口にした。
 小池劇場はどう続くのか。都幹部は、風頼りの姿勢を懸念して言う。「2回も大きな風が吹いた政治家はいない」 
 
普段は決して話題にはならないフリージャーナリストが、小池百合子の「排除発言」を引きだしたと取り上げられていたが、本人が事の次第を明らかにしていた。 
 
<「排除」発言を引き出した記者が見た「小池百合子の400日」> 
 2017.10.24 現代ビジネス
「あの会見」が全ての始まり
安倍政権打倒の先頭に立つはずの希望の星、改革の旗手が一転、リベラル派の「大量虐殺」に手を下す「詐欺師」に豹変したのでは――国民にこんな疑念が浮かんだきっかけは、9月29日の都知事会見だったことだろう。
「前原代表を騙したのか、(それともリベラル派排除のために、前原氏と)共謀したのか」との私の質問に対し、小池百合子都知事(希望の党代表)が笑みを浮かべながら「排除します」と断言した時のことだ。
その4日前の25日午後、安倍晋三首相の解散表明会見の直前に、小池氏は新党・希望の党結成と代表就任、そして「原発ゼロ」を掲げることを表明していた。電波ジャックに成功すると同時に、「原発ゼロ」を訴え続ける小泉純一郎元首相とも面談して激励を受け、「脱原発の旗の下に非自民勢力が結集し、原発推進の安倍政権を打倒するのではないか」という期待感が一気に高まった。
だが、小池氏は千載一遇のチャンスを自ら逃した。民進党の前原誠司前代表が、28日の同両院議員総会で「安倍政権打倒のために1対1の対決に持ち込む。排除されることはない」と説明し、民進解体・希望合流が満場一致で了承されたにもかかわらず、その翌29日、急失速を招く「排除」発言を口にしてしまったのである。
私は小池氏が都知事に就任した昨年8月以降、毎週金曜日の14時に行われる小池都知事の定例会見に、できる限り出席するようにしてきた。
しかし、小池氏の「記者選別」はトランプ大統領並みで、詳しくは後述するが、質疑の際には「お気に入り」の記者を明らかに優先して指すのである。フリーランスで、なおかつ小池氏にとって耳の痛い質問をすることが多い私は指されないことがほとんどだったが、この日は偶然か、半年ぶりに指名された。
そこで冒頭のように、民進党との合流に関する前原代表の説明との食い違いについて聞いてみたのだ。
どこか様子がおかしい…
横田:前原代表が昨日、所属議員向けに「希望の党に公認申請をすれば、排除されない」という説明をしたのですが、一方で(小池)知事、(希望)代表は「安保、改憲を考慮して一致しない人は公認しない」と(報道機関に話している)。(前原代表と)言っていることが違うと思うのですが、前原代表を騙したのでしょうか。それとも共謀して、そういうことを言ったのでしょうか。二人の言っていることが違うのですが。
小池知事:すいません。その質問は場所を転換してからお答えさせていただいた方がいいと思いますし、(筆者が?)「独特の言語」を使っていらっしゃるなと今思ったところです。
4日前に小池知事が希望の党代表に就任したために、この日の定例会見は2部制(前半が都政関連、後半が国政関連)になっていた。そこで私は第1部での質疑応答を止め、第2部で再び同じ質問を繰り返した。
横田:前原代表が昨日(28日)発言した「(希望の党に)公認申請をすれば、排除されない」ということについて。小池知事・代表は、安保・改憲で一致する人のみを公認すると。前原代表を騙したのでしょうか。共謀して「リベラル派大量虐殺、公認拒否」(を企てた)とも言われているのですが。
小池知事(=代表):前原代表がどういう発言をしたのか、承知をいたしていませんが、『排除されない』ということはございませんで、排除いたします。取捨(選択)というか、絞らせていただきます。
それは、安全保障、そして憲法観といった根幹の部分で一致していることが政党としての、政党を構成する構成員としての必要最低限のことではないかと思っておりますので、それまでの考えであったり、そういったことも踏まえながら判断をしたいと思います。
現下の北朝鮮情勢などで、これまでの議論に加えてリアルな対応を取っていこうと考える方々もいらっしゃるので、そういったところもしっかり皆様、希望の党から出馬されたいという方を絞り込ませていただくことでございます。ちなみに、その作業は私どもの方では若狭(勝)議員、そして民進の方から玄葉(光一郎)議員が絞り込みの作業に入るということで基本的に任せているところです。
横田:ということは、「安倍政権打倒」を甘い言葉にして、リベラル派大量虐殺、公認拒否・排除をしたということになりませんか。「(綱領にある)寛容な保守」であれば、ハト派からタカ派まで包み込まないのですか。公認しないのですか。そうしないと、安倍政権を倒せないのではないですか。
小池知事:多様性に富んでいるということは、これ(会見)で証明していることになります。とても寛容な記者クラブで…(と言って、私の質問に答えるのをやめて次の記者を指名)。
この「排除いたします」「取捨」という強い言い回しには正直、私も驚いた。驚いているうちに、小池氏は都庁記者クラブと会見そのものに話をすり替えてしまった。いま考えると、小池氏自身も直前の「排除」発言を「まずい」と思い、焦って話題を変えようとしたのかもしれない。
去年7月の都知事選を皮切りに、2月の千代田区長選、そして7月の都議選と、連戦連勝を繰り返してきた小池氏を1年あまりウォッチしてきた私には、これが「勝負師らしからぬ失言」としか思えなかった。
リベラル派を排除すれば、別の新党結成、ひいては野党乱立を招く恐れがあるのは予測できたはずだ。にもかかわらず、小池氏は自らの首を絞めるような愚行を始めてしまった。小池氏の「排除」は単なる失言ではなく、事実だった。
案の定、その後「排除」されたリベラル派議員を中心に立憲民主党が結党、希望の党を上回る議席を獲得し、野党第一党となったことは皆さんもご存知の通りだ。
止められる側近がいなかった
「女帝」のご乱心を止める側近がいなかったのも致命的だった。立憲民主党の結成前にこの「排除発言」を撤回し、「公認申請者は排除しない(全員公認)」と方針変更をしていれば、失速を避けることも可能だったに違いない。
しかし実際に希望幹部が反省の弁を口にしたのは、立憲民主党の結党後。希望の公認候補を決める民進側の窓口だった玄葉光一郎・元外務大臣は「(排除)発言がなければ、希望の党は200議席に迫る勢いだ」(13日)、「『排除』という言葉を使わなかったら、今ごろ自民党と競っていた」(18日)と悔やみ、小池氏もBSフジの番組で「きつい言葉だったと思うが、政策の一致(が重要)ということを申し上げたかった」と釈明したが、時すでに遅しであった。
ネット上では、小池氏のイメージダウンを招く映像が急速に広がっていった。私が「前原代表を騙したのか」と聞いた瞬間、小池氏はにやりと笑ったのだが、その様子を映した動画が「『前原をだました?』に『ふふふ』さすが緑のタヌキ(笑)」といった説明付きでSNSで拡散されたのだ。
わずか1年前の都知事選では、自民党から公認がもらえずに崖から飛び降りるように出馬し、「草の根改革派」として大勝した小池氏が、今回は一転、一手に公認権を握って「リベラル派大量虐殺」を断行する独裁者となったーージャンヌ・ダルクを彷彿させる善玉のイメージから、「女ヒトラー」(日刊ゲンダイ命名)のような悪玉イメージに変わってしまったのだ。
10月22日の投開票日を迎え、蓋を開けてみると、7月の都議選圧勝が幻だったかのように、お膝元である東京都の小選挙区でも希望の党は惨敗した。
その原因は、容易に推定できた。都議選で、自民党の歴史的惨敗と都民ファ―ストの会圧勝を実現した立役者である野田数・特別秘書(前・都民ファ代表)と選挙プランナーの松田馨氏が、今回の総選挙には一切関わっていなかったのだ。
「小池代表以外で候補者選定に関わっていたのは、産経新聞出身の事務総長のO氏と小池氏と懇意なジャーナリストのU氏で、リベラル派排除を進めたのはO氏と囁かれていました。都議選では、水面下の調整を含めた陣頭指揮を取った野田氏と、選挙プランナーとして候補者に指南をした松田氏が都民ファ圧勝に大きく貢献しましたが、今回の総選挙では2人とも外されていたようです」(都政関係者)
天下分け目の決戦で、実績抜群の有能な「部下」をわざわざ外し、先の読めない不寛容な側近で脇を固めたことが、都議選と正反対の惨敗を招いた主因ではないか。
皆「寛容」を期待していたのに
3ヵ月前の都議選で都民ファは、公明党や連合、民進党離党者などの非自民勢力を幅広く結集し、自民党を歴史的大敗に追い込んだ。その時に掲げたのが「情報公開」の旗印。森友・加計問題での安倍政権の情報隠蔽体質に対する批判が高まっていることと、都が情報公開を進めていることを重ね合わせ、争点化したのだ。
6月1日の都民ファ総決起大会の囲み取材で、私が「(都議選を)『ブラックボックス化の自民党』対『透明化の都民ファーストの会』という構図と捉えていいのでしょうか」と聞くと、小池知事は笑顔でこう答えた。
「たまにはいいことを言ってくれますね。ありがとうございます」
小池知事と入れ替わるように代表から幹事長となった野田氏も、次のように勝因分析をしていた。
「勝因は、自民党の体質が表面化したためだと思っています。今回の都議会選挙が注目を浴びたのは、小池都政が情報公開をすることによって、都政の様々な課題が浮き彫りになった結果です。選挙の大きな争点は『情報公開を進める都民ファーストの会』対『隠蔽体質の自民党』。都議選でしたが、国(安倍政権)の隠蔽体質に『NO』を突きつけたのです」
前述の通り都民ファは都議選で、やり手の若手選挙プランナーの松田氏を選挙対策に抜擢していた。去年11月12日の小池政治塾「希望の塾」第2回で講師を務めた松田氏は、2006年と2010年の滋賀県知事選で嘉田由紀子・前知事の連続当選にも貢献した人物だ。
ちなみに小池氏と嘉田前知事には、女性知事以外の共通点がいくつもある。2人とも環境保護推進派で、選挙のシンボルカラーはグリーン、そして知事選で自公推薦候補を打ち破った。しかも松田氏は2012年12月の総選挙で、嘉田氏が知事と「日本未来の党」代表を兼任した際にも選挙プランナーを務めていた。野党が乱立して自公が圧勝、第2次安倍政権が誕生した時のことである。
「今回の総選挙で小池氏が、都議選圧勝に貢献した松田氏や嘉田前知事に助言を求め、野党乱立(日本未来の党・民主・維新・みんなの党)を招いた当時の失敗談に耳を傾けていれば、あの『排除』発言を口にすることはなかったかもしれません」(永田町ウォッチャー)
私の質問の主旨は、「『安倍政権打倒』という目標と『リベラル派排除』は両立しうるのか」という疑問を呈示することだった。「『寛容な改革保守』という党の綱領に従って、公認申請をする民進前議員を全員受け入れ、ハト派からタカ派まで包み込む非自民勢力の結集を実現することこそ、政権交代には欠かせないのではないか」と言い換えることもできるが、この問いかけに小池氏は答えようとしなかった。
人選ミスに加えて、小池氏自身の聞く耳を持たない「独裁的体質」が転落に拍車をかけたのではないかと思う。
選挙の後、私のもとには「よくぞ質問してくれた」という声も、「あんなことを聞かなければ、希望の党は安倍政権を倒していたかもしれないのに」という声も両方届いている。
確かに、あの会見で私が質問をしなかったら、あるいは私が半年ぶりに小池氏に指されなかったら、選挙の結果はかなり違ったものになっていたかもしれない。また個人的には、自民党を再び大勝に導く遠因を作ってしまったと思うと、複雑な気持ちではある。
しかし一方で、小池氏が「排除」した民進党リベラル派はすぐに立憲民主党を作り、安倍政権に批判的な民意の受け皿となった。彼らが希望の党にいったん合流したとしても、遅かれ早かれ、袂を分かつ日は来ていたはずだ。その日が早まっただけだと考えれば、むしろ選挙後の混乱を未然に防ぐことになったのかもしれない。
おまけ:記者も「排除の論理」?
最後に、小池氏の会見スタイルについて少し補足をしておこう。氏はテレビなどでもおなじみの通り、質疑応答の際には笑顔を絶やさずに丁寧な口調で受け答えをする。しかしその一方で、質問者を選別し、私のような記者には質問の機会をほとんど与えない一面がある。小池氏は去年の夏以降、都知事としての記者会見でも「排除の論理」を徹底してきたといえる。
このことは、定例会見と臨時会見における記者別指名回数を順位づけした「都知事会見の指名回数順位(“好意的記者”ランキング)」を見ると、一目瞭然だ。
ちなみに、私が小池氏の「ブラックリスト」に載った質問と見ているのが、2回目の指名となる昨年8月13日のもの。私はこの時、築地市場の移転問題について、市場関係者との面談を非公開にしたことを問い質したのだが、これ以降、約半年も指されない状態が続いた。
そこで私は「都知事会見指名回数順位表(お気に入り記者ランキング)」(表1)を作成してネット媒体の「リテラ」に掲載した。すると、その約1週間後の3月10日、半年ぶりに指名された。
しかしその後は、再び指されない状態が続くようになったので、今度は月刊誌「創」2017年9月号に、今年7月までの情報を追加した最新版(表2)を掲載してもらったところ、9月29日に半年ぶりに当てられたのだ。
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この表にある日テレの久野村記者やTHE PAGEの具志堅記者は、直近の会見でも私よりはるかに頻繁に指名されている。ランキング2位の具志堅記者は、10月6日と13日に両方とも指された。久野村記者は、13日の囲み取材で私が質問したとたん「囲み終了」が宣言されたにもかかわらず、そのあとで追加質問が許される特別扱いを受けていた。
とにもかくにも、有権者の審判は下された。「排除」というただ一点によって、これまでの破竹の勢いを大きく削がれることとなった小池氏。これから東京五輪へ力を振り向けてゆくこととなる都政を、また国政政党となった希望の党の舵取りを、まっとうすることはできるだろうか。
 
小池百合子 排除発言 前後ノーカット 【記者会見】

 
まだまだ希望の党の内部はゴタゴタが続きそうだが、国民に希望を与えるふりして、自分の野望にこだわり、最後は多くの仲間を絶望のどん底に落としてしまった。
 
二足のわらじを履きこなすことはもとより、小池百合子には、お得意の横文字のことわざを送ろう。
 
 「If you run after two hares you will catch neither」
   
すでに、「東京五輪まで1000日/1(その1) 選手村レガシー暗雲 『総選挙』『豊洲』、小池流で停滞」という事態になっており、みずから播いた種を今後、どのように刈り取っていくのか、それが女帝の今後の政治生命を左右することであろう、とオジサンは思う。

posted by 定年オジサン at 12:00| 神奈川 ☀| Comment(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

KYOKAIを見てきた

リオ五輪の閉会と共に長い反骨の人生を歩んだ人が亡くなった。
 
「反骨のジャーナリスト」であった、むのたけじさん。101歳の大往生であったのであろう。
 
最近の日本人は3人に1人は癌でなくなると言われているが、遺伝的な癌はともかく食生活が大きく影響しているらしい。
 
もっとも戦前生まれの人は食糧事情が悪く、癌になる前に寿命が尽きたのかもしれない。
 
しかし、むのさんは先の大戦中に大学を卒業し、朝日新聞に入社したが1942年にインドネシア上陸作戦に従軍しながら無事に戻り、その後戦争を止められなかったジャーナリストとして責任を取ると、朝日新聞社を辞めた。
 
その後は、2002年の胃がん、2006年の肺がんと闘い完治して再び現場に戻った。 
 
どんな悪い平和でもいい戦争に勝る。平和は意識的な戦いの中でしかつかめない
 
平和を願うなら、そのための記事を毎日書き続けることで、願いは『主義(イズム)』となり、『ジャーナル(日記)』は『ジャーナリズムになる』。書き続けなくてはならない。」     
 
最近の若い記者たちに聴かせたい言葉である。
 
今年の5月3日の憲法集会で聞いた、おそらくむのたけじの公の場での最後の講演を下記に記しておく。
 
 私はジャーナリストとして、戦争を国内でも海外でも経験した。相手を殺さなければ、こちらが死んでしまう。本能に導かれるように道徳観が崩れる。だから戦争があると、女性に乱暴したり物を盗んだり、証拠を消すために火を付けたりする。これが戦場で戦う兵士の姿だ。こういう戦争によって社会の正義が実現できるか。人間の幸福は実現できるか。戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった。新聞の仕事に携わって真実を国民に伝えて、道を正すべき人間が何百人いても何もできなかった。戦争を始めてしまったら止めようがない。
 ぶざまな戦争をやって残ったのが憲法九条。九条こそが人類に希望をもたらすと受け止めた。そして七十年間、国民の誰も戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった。これが古い世代にできた精いっぱいのことだ。道は間違っていない。
 国連に加盟しているどこの国の憲法にも憲法九条と同じ条文はない。日本だけが故事のようにあの文章を掲げている。必ず実現する。この会場の光景をご覧なさい。若いエネルギーが燃え上がっている。至る所に女性たちが立ち上がっている。新しい歴史が大地から動き始めた。戦争を殺さなければ、現代の人類は死ぬ資格がない。この覚悟を持ってとことん頑張りましょう。
 
この講演から暫く経って、彼の年の半分ほどの女性が安保法制違憲訴訟原告として、こんな文章を「マガジン9」に、「隣人として」と題して寄稿していた。
 
 わたしが安保法制違憲訴訟の原告になろうと決意をしたのは、この身にせまる命の危機感からです。考えたくもありませんが、もし「有事」となれば、日本国籍を持たない者は、どの国のパスポートを持っているか、ということが命とりになるかもしれません。だからこそ、「永遠に戦争を放棄する」という一文は、何より重く、尊く、わたしにとって切実な命の保障を意味するものです。
 もし、朝鮮半島あるいは中国との「有事」となれば、在日コリアンに対して「北か南か」など、親の思想やルーツを調査されるかもしれません。冷戦はいまも在日を分断しています。どんなにこの土地に愛着を持っていようと、「反日」か「親日か」とレッテルを貼られます。すでに日本の戦争責任問題に言及する良心的な日本人への「パージ」もひどく、「おまえも朝鮮人か」などと攻撃されています。小林多喜二も横浜事件も、過去ではなくなっています。
 朝日新聞が、旧日本軍慰安婦の被害を紙面で取り上げれば、「殺す」などと脅迫され、週刊誌はそれを正当化するかのごとく、朝日新聞「売国奴」「捏造」などという見出しを出します。電車、銀行、美容院、病院などで読まれるごく一般の週刊誌の表紙に、「売国奴」「国賊」などという時代錯誤の戦中用語が踊り、それが日常的な風景となった異様な社会にわたしたちは生きています。
 週刊「文春」「新潮」の嫌韓・嫌中キャンペーンも、「ナチスに学べば」発言の麻生太郎氏も、子孫に日本の負の歴史は伝えたくない安倍晋三首相も、わたしにとっては、米国で人種差別発言をくりかえすトランプ氏となんら変わりありません。
 ソ連、中国、北朝鮮は、日本にとって理解しがたい悪の枢軸、という目線は「冷戦」そのものです。もはやそこに住むひとびとの悲しみも喜びも消されているようです。
 
わたしは 敵国人となってしまうのか
 
 真珠湾攻撃をうけた米国は、1942年、在米日系人約12万人に対し、財産を取り上げ、砂漠や寒冷地などの荒野へ強制収容しました。収容命令は、たとえ米国の国籍や市民権を持っていても、米国生まれであっても、少しでも日系の血が入っていれば、収容対象となり、日本人の血が32分の1以下で日系社会と関係ないことが証明されないかぎり、逃れられなかったというのです。
 ひるがえって日本で「有事」となったとき、在日コリアン他外国人200万人以上が、「日本人ではない」というだけで敵視され、まさか収容されないだろうか、あるいはそれぞれの国籍国に「強制送還」されないだろうか。いまの政権をみていると、おそろしい「妄想」がつぎつぎにわたしを苦しめます。
 「日本のこころを大切に」「日本の伝統や文化を重んじる」「ニッポン・がんばれ」というコールが声高に響けば響くほど、日本人ではないわたし(たち)は、ここに居てもいいのだろうか、という気がしてきます。
 自民党結党以来、その「党是」とは、現憲法を変え、明治憲法に戻すことにあるようです。なにより「天皇を元首とする」と明確に自民党改憲草案に書かれています。
 ということは、「主権在民」すら、危ういのでしょうか。
 教育基本法、周辺事態、盗聴法、マイナンバー、あげればきりがありませんが、国家が国民を縛るような法案が、つぎつぎと施行されてしまいました。いま、われわれの手には何がのこっているのでしょう。

平和と戦争は双子のようなもの

 戦後の東アジア、とりわけ日韓の緊張関係は、約60年前の「朝鮮戦争」をぬきに考えられません。日本にとって朝鮮戦争は単に「特需」で「良かった」という出来ごとでしょうか。
 1950年6月25日、朝鮮戦争が始まり、米ソの東西冷戦によって「日本再軍備論」が日米双方で高まり、その結果、自衛隊の前身「警察予備隊」が発足します。当時日本はまだアメリカ占領下、しかし朝鮮戦争のただ中、サンフランシスコ講和会議が行われ、独立を果たし祝賀ムードに沸いた日本。しかしその後も現在に至るまで、軍事的に米国の支配下にあることは沖縄のみなさんが最もよく知るところです。独立とはいったい何でしょうか。あの「沖縄密約」ひとつあげても、日米政府間の闇は底知れず深く、「国家機密」という名で、わたしたちは真実を知ることすら封じられています。
 朝鮮戦争で朝鮮の「市民」は300万人以上の死者を出し、多くの難民が出ました。わたしの父も、その難民のひとりです。
 ひとつの国が、かつては侵略され、そこから解放されるや戦争となり、同じ民族が銃を向けあった傷は、いまも深く人々を切り裂いています。その朝鮮戦争時、沖縄から多数の戦闘機が飛び、わたしの出身地・北九州市小倉の砂津港には、米兵の死体が多数運ばれ、その死臭が町にただよっていたという証言を聞いたことがあります。
 多くの死者を出した朝鮮戦争、いまも休戦状態にある朝鮮半島。その戦争のための兵器を日本は製造し、戦時「特需」は5年間で総額16億1900万ドルに達し、この国は焼け野原から「復興」したのです。隣の国の戦争の犠牲によって「復興」したことを、「特需」という言葉でくくってよいものでしょうか。この歴史、その歴史認識の延長線上に、今回の安保法制施行もあるのではないでしょうか。「平和と戦争は双子のようなもの」です。
 隣の国で血が流れていたとき、平和憲法を獲得した日本、その意味をもう一度、考えてみてください。ふたたび朝鮮戦争が起こる前に…。
 この訴訟は、わたしたちの、「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起こることのないようにすることをここに決意」したものです。
・・・後略・・・
 
文章の内容からわかるように、彼女は在日コリアンの崔善愛。
 
「崔」という文字の発音は日本人には難しく、「チェ」と表記されるが正確には「チォエ」と発音する。
 
ざっと彼女のプロフィールを紹介する。
 
20160821chesone.jpg
  
 
北九州市出身、愛知県立芸大大学院修了後、米国インディアナ州立大学大学院へ3年間留学。
出国準備中、指紋押捺を拒否したため、再入国許可の発行が不許可となった。成田空港のイミグレーションで不許可のまま出国すると永住資格を失うと説明を受け出国、そのまま協定永住資格を失った。1988年に一時帰国、法務大臣から180日の在留特別許可を受けたのを皮切りに延長を続け、日本政府を相手に再入国不許可取り消し訴訟を戦うが、1998年に最高裁判所で敗訴が確定した。その後、日本政府は1999年に救済措置として外国人登録法を一部改正(平成11年法律第134号)、翌年から施行され、崔善愛は2000年に永住資格を取り戻した。
現在は、ピアニストとして音楽芸術家協会に所属し、ピアニストとしての演奏活動の傍ら、コンサートの収益を多田謡子反権力人権基金に寄付したり、全国各地で「平和と人権」、「日の丸・君が代」問題、「新しい歴史教科書をつくる会」不採択運動や「反原発」をテーマにした講演や演奏会など、積極的に啓蒙活動をおこなっている。
 
「反原発」をテーマにした講演や演奏会などで、オジサンも彼女のピアノ演奏を聞いたことがある。
 
日本政府相手に戦い最高裁で敗訴されながらも、最後は永住資格を取り戻したというこの粘り強い闘争心は恐らくは父親譲りなのであろう。
 
先日、彼女が音楽監督を務め、彼女の父で人権活動家の牧師でもある崔昌華をモデルにした、東京芸術座の「KYOKAI 心の38度線」を観劇した。
 
当初は漠然としたタイトルの「KYOKAI」が物語が進むにつれて、戦後、北朝鮮から38度線という「境界」を越えて韓国に逃げてきた敬虔なクリスチャンとして生まれた父親が牧師として多くの人々を「協会」で「教戒」して行く生き様から明らかになる。
 
そして劇中では在日コリアンに対する日本人の差別意識のみならず、日本人同士でありながら、現存する被差別部落出身者に対する差別意識も「心の38度線」という表現で訴えている。
 
この父親が1975年10月に起こしたNHKを被告とした「人格権である名前を民族語音で呼称すること」求めた訴訟では、劇中の裁判の場面でNHK側の証人や代理人が発する「中立」という言葉の曖昧な基準に対しても、原告に鋭く批判させていた。
 
この裁判は地裁、高裁で棄却されたが、その間に1984年7月に全斗渙・韓国大統領の来日をきっかけに、外務省が氏名・地名民族語音読みに改めたという事実がある。
 
そして翌1985年にはNHKも民族語音読みに改め、1988年には上告していた最高裁は棄却したが、氏名呼称に人格権を認めたのである。
 
現在の北朝鮮や韓国の地名や人名が、他国の(特に中国)地名や人名の呼称と異なり「民族語音読み」になったのは、まさにこの劇の主人公・崔栄道(チォエヨンシク)こと、崔善愛(チォエソネ)の父・崔昌華(チォエチャンホァ)の民族の人権をかけた戦いの成果であった。
 
劇のストーリーが過去の史実にそった内容で簡明で分かり易い演出であり、機会があれば是非観てもらいたい作品である、とオジサンは思った。 
    
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2016年05月22日

動員学徒の青春・・・反応工程

世の中には、相変わらず残酷な事件が相次いでいるが、ようやく気候的には5月らしい、初夏の様相になってきた。
 
26日からの伊勢志摩サミットの影響なのか、サミット会場からは遠く離れているオジサンの地元の鉄道の駅にも、普段は見かけない防弾チョッキを付けた警官の姿がやけに目につくようになっている。
 
チョット古いのだが、知人の名前が載っていた記事があった。  
 
<平和でなければ芝居続けられぬ 俳優座、反戦に絞り年間上演>
 2016年3月16日 夕刊 東京新聞
 日本を代表する劇団の一つ、劇団俳優座(東京・六本木)が、反戦平和の願いを込めた芝居に絞った上演活動に取り組んでいる。夏の参院選で改憲が争点として浮上する中、若者の団体や本紙「平和の俳句」選者の俳人金子兜太(とうた)さんらが応援団を結成。劇団は「平和でなければ芝居は続けられない。演劇を上演すること自体を平和運動にしたい」と意気込んでいる。 (五十住和樹)
 劇団の創設は戦時中の1944年2月。創設を伝える新聞では、メンバーの千田是也(せんだこれや)さんが、治安当局に目を付けられていたため、検閲を考慮し名前を出さなかった歴史もある。
 制作担当の下(しも)哲也さん(64)によると、集団的自衛権行使を政権が認め、戦争へ向かう空気が広がってきたことを受け、劇団員には「国民が戦争に駆り出される近未来にしたくない」との思いが強く、反戦平和の演目を年間上演することを決めたという。
 1月には、安部公房作で、満州(中国東北部)を引き揚げる際の財閥家庭の悲喜劇を描いた「城塞(じょうさい)」を上演。5月には終戦直前の軍需工場が舞台の「反応工程」の上演を予定する。
 学徒動員を経験した劇作家、故宮本研さんの「戦後史三部作」といわれる戯曲の一つで45年8月、九州の軍需工場で炭鉱の石炭を化学変化させ薬品や爆薬を作り出す工程で働く動員学徒らの物語だ。原爆が投下され敗色が濃厚となっても召集令状が届く様子などが生々しく描かれる。
 
じつは、この夕刊記事が出る3日前、制作担当の下哲也さん(劇団俳優座制作部長)は64歳で心不全で突然亡くなった。
 
葬儀は近親者で営まれ「偲ぶ会」が4月6日午後6時から東京都港区六本木の俳優座稽古場で厳かに開かれ、その会に出席した人のブログから一部紹介する。
 
ひと月前に急死した俳優座制作の下哲也氏(64)を偲ぶ会が六本木・俳優座稽古場で。北海道から九州まで、各地の演劇鑑賞会の方々、各劇団、俳優、メディア関係者、評論家などが出席、盛大な会になった。
清水直子さん、早野ゆかりさんら俳優座の女優さんたちに挨拶。先日の公演で脚本を書いた美苗さんとは2010年の「心の止り」で親しくさせていただいた。先日の二作目「ラスト・イン・ラプソディ」は心に残る佳品だった。
今年、俳優座は年間を通して「戦争と演劇」をテーマに公演を行う。その中心になったのが下さんだった。さぞや心残りだっただろう。
「俳優座は千田是也らの遺志を伝える劇団。こんなふうな、明日にでも戦争が起きかねない時代に演劇で抗するのは当たり前。劇団としての覚悟は出来ている」と代表の山崎菊雄さんが言う。
再び戦争の時代になったとしたら、劇団はどうあるべきか。山崎さんの心強い同志だった下さんの不在は大きい。
新劇の巨木である俳優座の消長は若い俳優、スタッフの双肩にかかっている。
「アンチ新劇」を掲げたアングラが変質を重ね、今では時代と斬り結ぶことから遠ざかっているように見える。
 
今は亡き作家の宮本研は、戦後三部作の「反応工程」「日本人民共和国」「ザ・パイロット」、革命四部作の「明治の棺」「美しきものの伝説」「阿Q外伝」「聖グレゴリーの殉教」など1970年代前半までの作品の多くは、革命運動の中の革命党、革命指導者と民衆の矛盾を描くことが多かった。
 
宮本研は「人にはどうしても人に語りたくないものがあり、そんな時、人はたとえばモノを書いたりする。私の場合は、それが『反応工程』だった」と書いていた。
 
劇団俳優座は5月13日から22日まで、連続10日間の公演を紀伊国屋ホールで行っている。
 
その公演の前日にはこんな記事が掲載されていた。
 
<動員学徒の苦悩、二方向から 俳優座と文化座が競演「反応工程」>
 2016年5月12日16時30分 朝日新聞DIGITAL
 軍需工場で働く動員学徒の叫びや苦悩を描いた宮本研・作の舞台「反応工程」が今月、劇団俳優座と劇団文化座の公演で競演される。それぞれの演出家に聞いた。
 ■俳優座・小笠原響「不条理さ見せる」 文化座・米山実「社会の縮図焦点」
 終戦直前の九州の軍需工場で、石炭を化学変化させて爆薬を作り出す「反応工程」で働く動員学徒の物語。徴兵への焦燥感や思想統制への怒り、敗戦の準備を進めているのに工程を止めない大人たちへの不信感が、動員学徒を中心に描かれている。軍需工場に学徒動員されていた宮本の自伝的な作品だ。
 俳優座は演出家の小笠原響(きょう)を迎え、文化座は劇団の米山実が演出をする。
 現代に上演する意義について小笠原は「動員学徒たちに召集令状が来ると、周りの人が『おめでとう』と言うなど、戦争の不条理さを考えるきっかけになれば」と言う。召集令状が届く場面では学徒の心の動きを大切に演出する。
・・・後略・・・
 
俳優座の演出を初めて手がけた小笠原響は両親も俳優だという。
 
その演出家の小笠原はこの原作者についてこんなことを言っていた。
 
「・・・彼が動員された大牟田の石油化学工場は大空襲に遭い、共に働いた仲間が命を落としました。広島・長崎と原爆も落とされました。しかし終戦直前の8月、宮本氏は栄養失調で郷里の天草に帰っていて助かったそうです。かれは財閥が経営する巨大な工場で働くうちに、戦時下でありながら私腹を肥やす「戦争を好む者」の存在を感じたようです。新型兵器の存在も分かっていたはずのなのに戦争を続行し、失わなくても済んだはずの沢山の命が失われました。その責任はどこにあるのか、本当にそれは全て追及され明るみに出されたのか。宮本氏は生き残った者として沈黙し『わだかまり』を持ち続ける日々にふと気づき、知り得ることを証言する責任があると、お感じになってこの『反応工程』をお書きになったのでは・・・」
  
亡くなった下哲也さんの遺作にもなった「反応工程」の最終日なので、これから見に行くことにする。
 
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posted by 定年オジサン at 10:26| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月11日

まだまだ続く、あれから〇年

3月11日のこの日は、東日本大震災発生から丸4年目ということで、被災した東北3県を中心に全国各地でメモリアルデーとしての様々な催し等が開かれている。
 
在京大手マスメディア各紙の社説は、政府広報紙とか自民党宣伝紙と指摘されているメディアもそうではないメディアも、過激な主張は差し控えて、亡くなった人々を悼み、復興への希望を新たにする論調である。
 
オジサンも震災の翌日から毎年、様々な形でつぶやいてきた。
 
東北地方太平洋沖地震(2011年3月12日)
あれから「もう1年」か「まだ1年」か(2012年3月11日) 
3.11大津波後の被災地の定点観測(2013年3月12日)
公共事業だけでは復興対策にならない(2014年3月11日)
 
これまでの被災状況と復興の現状は公式発表によると各県別で下図のようである。
 
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しかし復興住宅の進捗率はまだまだである。
 
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復興が各地で進む中、別の悩ましい問題が発生していると、朝日新聞の仙台総局長で東北復興取材センター長である坪井ゆづる記者が、現地からの生々しくレポートしている。
 
<東日本大震災4年、見えてきた現実 東北復興取材センター長・坪井ゆづる>
 2015年3月11日05時00分 朝日新聞DIGITAL
 1年目はガレキの山だった。2、3年目は道路や防潮堤がずんずん延びた。そして4年目、まちづくりも動きだした。原発被災地は無残に取り残されているが、復興は各地でカタチになりつつある。そんな現場を歩くと、カタチが見えてきたからこそ実感する悩ましい現実がある。
 三つの事例を挙げる。
 一つは宮城県岩沼市。この春、約400世帯、ざっと千人の街ができる。津波に流された六つの集落が集まる。最も早い大規模集団移転で、復興の成功例といわれる。
 悩ましいのは高齢化だ。65歳以上が3分の1で、高齢化率は市内平均より10ポイントは高い。被災地にはほかにも、高齢者が過半数を占める町営の復興住宅など、次々にシルバータウンシルバータウンが生まれている。
 二つめは岩手県陸前高田市。全長3キロのベルトコンベヤーが、「奇跡の一本松」の近くの更地と道路をまたいで土砂を運ぶ。約300ヘクタール、甲子園球場ほぼ80個分の土地区画整理事業が進む。阪神大震災での同事業(20カ所)の総面積をここだけで上回る。総工費は1200億円。
 悩ましいのは人口流出だ。市街地を高さ約10メートルにかさ上げするが、人口は4年で2割近く減り2万人ほど。工事はあと4年は続く。盛り土したのに歯抜け再建になりかねない。そもそも区画整理は急激な人口減を想定していない。過疎に対応した、まちづくりの新制度が求められている。
 三つめは常磐自動車道。1日に全線開通した。福島県内の原発事故による帰還困難区域を貫く。安倍晋三首相は10日の記者会見で、「復興の起爆剤」と位置づけた。
 悩ましいのは原発事故処理の難しさだ。高速道の下は無人の街。JR双葉駅の時計は震災の時刻を指したまま。渡線橋は腐食して傾く。高速道とは残酷なほどに対照的だ。
 3カ所の現場は高齢社会、過疎地のまちづくり、原発問題への対応策を問いかける。これらは多くの自治体が直面している課題だ。だから復興には、この国の将来を見すえた施策が期待された。だが、見えてきた現実からは、それが十分だったとは言い難い。
 どうすればよいのだろう。広域かつ多様な現場に、共通の正解などない。ただ、省庁縦割りの事業より、もっと自治体に権限も財源も渡し、柔軟な発想と手法で挑んだ方がいいのは確かだ。その先に、もっと住民が主役だと実感できる復興がある。
 まだ間に合う。復興はこれからが本番なのだから。
 
「シルバータウン」、「人口流出」、「原発事故処理の難しさ」と、これらは決して被災地特有の問題ではなく、全国の過疎の村や原発立地自治体が、現在そして将来に向けて抱える問題でもある。
 
まだ4年しかたっていないのだから、道半ばなのだろうが、脳天気な安倍晋三首相は、依然高線量の福島県内の原発事故による帰還困難区域を貫く常磐自動車道の全線開通を「復興の起爆剤」などと言っているが、2020年の東京五輪の安心・安全は怪しいものである。
 
さて、昨夜は新宿である劇を見てきた。
 
「医療崩壊」の危機が叫ばれる中、現場の苦労と情熱を温かいユーモアに包み込んで生き生きと描き出し、「ぜひ全国公演を」という声が上がっていた矢先の2011年3月11日の激震によって、その後の公演は中止を余儀なくされた劇である。
 
あの日からまる4年が過ぎる2015年春、震災を経験した青ひげ先生が再び立ち上がり、日本の医療の今を問いかける、というキャッチコピーの「青ひげ先生の聴診器」。
 
定年退職してから家でサスペンスドラマなどを見る機会が増えたのだが、犯人探しの興味とか、時間トリックの解明、そして最後の意外な結末等々、刺激的なドラマを見過ぎてしまったオジサン。
 
昨夜の劇は大きな事件も起きず、危険を省みずに闘うヒーローもいない新潟県のある総合病院の院長室を舞台にした物語だったが、随所に極めて日常的な医療問題への鋭い指摘がちりばめられていた。
 
若い研修医に「エキスパートよりもプロフェッショナルな医者になりたい」とか「臓器しか見ず患者を診ない医者にはなりたくない」というセリフを言わせている。
 
そして、患者とじかに向き合うことを大切にしている「青ひげ先生」と呼ばれている院長が、完璧な手術にも拘わらず別の原因で患者が亡くなり遺族から医療ミスで訴えられている後輩で「神の手」と呼ばれた天才外科医に対して、汚名返上の機会を与える目的で手術を行わせる。
 
しかしまたもや術後に患者が亡くなるのだが、なぜか遺族からは感謝される。
 
その後この後輩医師は、青ひげ先生の日ごろからの患者との信頼関係があることから、たとえ術後に家族が亡くなっても本人が満足した表情でなくなったと遺族からお礼を言われたのだと、今までの医者としての己の傲慢さに気づき反省する。
 
劇中劇の「水戸黄門」では、患者からは裕福で偉そうに見える医者を悪代官にすると観客は喜ぶものである、という医者批判の台詞も出てくる。
 
そして最後にこの劇の作家である高橋正圀が若い医師に次のように言わせている場面が印象的だった。
 
戦後という時代はすでに遠く、今は災後という時代区分の中で生きている我々のはずなのに、国土強靭化の名の下に公共工事のばらまき、五輪招致のはしゃぎぷりはほとんど戦後高度成長期の再現である」 
 
この劇は是非、安倍晋三夫妻に見てもらいたい、と心底からオジサンは思った。

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2012年05月20日

歌舞伎十八番・鳴神

現役の会社人間の頃は、全く無縁だった歌舞伎の世界を体験したのは2年前のオバサンとの結婚記念日だった。
 
まさに「未知との遭遇」だったのだが、招待券付であった。
 
そしてそれからは自腹で歌舞伎を観る機会を持つようになった。
 
「歌舞伎十八番」と呼ばれる演目がある。
 
初代から4代目までの團十郎が、初めて演じてしかも得意にしていた以下の18の作品を集めたものを、7代目市川團十郎によって1832年(天保3年)に定められた。
 
1.『助六』(すけろく)
2.『矢の根』(やのね)
3.『関羽』(かんう)
4.『不動』(ふどう)
5.『象引』(ぞうひき)
6.『毛抜』(けぬき)
7.『外郎売』(ういろううり)
8.『暫』(しばらく)
9.『七つ面』(ななつめん)
10.『解脱』(げだつ)
11.『嫐』(うわなり)
12.『蛇柳』(じゃやなぎ)
13.『鳴神』(なるかみ)
14.『鎌髭』(かまひげ)
15.『景清』(かげきよ)
16.『不破』(ふわ)
17.『押戻』(おしもどし)
18.『勧進帳』(かんじんちょう)
 
熱烈な歌舞伎ファンならば当然観ている演目だろう。
 
上記の18番の中の「鳴神」は「鳴神不動北山桜」という長い芝居の四段目を取り出したものである。
 
その「鳴神」を「国立劇場大劇場出演30回記念」と称する「前進座5月国立劇場公演」で昨日観ることができた。
 
当劇場での前進座の公演を観るのは、昨年の「創立80周年記念」における「唐茄子屋」と「秋葉権現廻船噺」に次いで2度目である。
 
2010年11月に前進座は総勢69名で米国のロサンゼルス・アラタニ日米劇場で「鳴神」を公演している。
 
1937年の初演から130回にも及ぶ上演を重ねる中で、試行錯誤を繰り返しながら練り上げ、古式に則った演出で、前進座の財産演目にもなっている。
 
米国公演は、カーテンコールではスタンディングオベーションでの拍手の中で大成功だったと記録されている。
 
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 「おおらかさで豪快
 歌舞伎の美しさと面白さが凝縮!
 原点に立ち返る演出で再登場」 
 
と、演目紹介文には書かれていた。
 
当日購入したパンフレットの「あらすじ」では、こう紹介されている。
 
 鳴神上人の祈祷の効験があって、後継の皇子が誕生したのに、帝は、上人のために京の北山に戒壇を設けるという約束を破る。怒った上人は、密法の法力で三千世界の龍神を北山の滝壷に封じ込めた。このために天下は旱つづき。帝は、才知長けて洛中無双の美女、雲の絶間姫を北山に遣わし、上人の心を迷わせて、神通力を奪おうと謀る。
 人跡未踏の深山。「女の身で訝しい」と、心を許さない上人。だが、亡き夫との馴れ初め、その家を訪ねる途中の裾をからげて川を越える仕方話が始まる。それをなぞる、上人の弟子の白雲坊、黒雲坊の三枚目ぶり。絶間の色香に惑わされ、ついでに癪をを起こした姫の介抱で、生まれてはじめて女人の素肌に触れたことから、その巧みな誘いにのせられて、女夫契りの盃ごととなり、とどのつまり、上人は正体なく酔いつぶれる。と、やおら姫は、龍神を封じ込めた滝壷の注連縄を懐剣で断ち切る。沛然たる雨、雷鳴。
 欺かれた上人は、怒髪天を突く形相と化し、所化たちと大立ち廻りを演じたすえ、"飛び六方"で絶間姫を追う----------。

登場人物は、鳴神上人と雲の絶間姫、そして上人の弟子の白雲坊、黒雲坊とわずか4名。
 
約2時間余りで、前半が雲の絶間姫の仕方話と、いわゆる「色仕掛け」で鳴神上人から密法の法力を奪うところまで、そして後半が元禄歌舞伎の面影を観せるように、貼紙細工の降雨や稲妻や鳴神上人が変貌をとげるに緋毛氈で囲ったりと工夫がなされていた。
 
まさに「女の武器」を使い体を張った雲の絶間姫の誘惑に負けてしまった鳴神上人に、29歳で出家した釈迦もそれ以前に一子ラーフラをもうけたことを念頭に、「釈迦も子どがいた凡夫」と言わせ、絶間姫に夫婦の契りを迫る様は、とても俗っぽくて元禄歌舞伎が大衆芸能であったことがよく分かる。
 
ストーリー的には、鳴神上人は悪人で、計略でやっつけられてしまうような印象が残るが、そもそも、帝が「戒壇を設ける」という約束を一方的に破ったわけで上人の怒りは正当なものだった。
 
鳴神上人は、信心深く真面目で一所懸命修行して、信仰にも嘘偽りがないからこそ密法の法力を得たのだから、根っからの悪人ではないのだろう。
 
でも雨が降らないのは困るので、執政者としては、とりあえず「上人を女色でまどわして雨だけ降らせちゃえ」 と謀略を実行したのだろう。
 
この演目の目玉はなんと言っても、後半の鳴神上人の怒りを、「荒事」の手法で表現しているところである。
 
この「荒事」とは、鬘を髪の逆立った「毬栗」に変えて「隈取」をほどこし、衣裳は白地に火炎模様の描かれたものに「ぶっ返り」、演技では、岩屋の柱を両手でつかみ片足をからませる 「柱巻の見得」、岩の上で片手に切れた注連縄をつかんでの「不動の見得」、弟子の僧たちとの「立廻り」、そして「幕切」には姫を追いかける様子を表現する「飛び六方」などの演技を指すのだが、改めて形式美に則り歌舞伎の本当の面白さを堪能できた「未知との遭遇」の日であった、とオジサンは思った。

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2011年10月23日

女郎の誠と玉子の四角

11月12日からホノルルでAPEC首脳会議が開催され、野田佳彦首相が出席しオバマ大統領にTPP参加を表明すると報道されている。
 
今年の1月24日、当時の菅直人首相は施政方針演説で、TPPの交渉参加問題を改めて政権の最重要課題の一つに掲げた。
 
そして首相はその演説の中で、TPP参加を「平成の開国」の目玉とし、現在を明治維新、戦後の改革に続く「第三の開国」と位置づけた。
 
第一の開国と菅直人が位置づけていた明治維新。
 
維新直後の混乱が少々収まった頃、時の明治政府は庶民を無視した大きな改革を断行した。
 
*
 
維新前から続いていた暦は太陰暦が採用されていた。
 
29.53日の公転周期(朔望月=太陰暦における1箇月)の月運行のみを基準にした太陰暦。
 
1年で地球の公転周期(365.2433日)に10.88日ほど足りなく、実際の季節とはずれていくことになる。
 
しかし当時の人は、1ヶ月が目に見える月の形で確認することができた。
 
したがって、商い上の支払いや借金の返済はすべて「闇夜」の月末に行われた。 
 
これが太陽暦が唐突に採用され、天地がひっくり返り「女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日に月が出る」と唄われたような騒ぎになった。
 
当時の詳細な状況を資料から紹介する。
 

■乱暴な明治改暦
「明治五年(1872)十二月三日を以って、明治六年(1873)一月一日とする」
 明治政府は明治五年十一月九日(西暦1872年12月9日)に改暦詔書を出し、時刻法も従来の一日十二辰刻制から一日24時間の定刻制に替えることを布達したのです。布告から施行までわずか23日というスピード実施であり、しかも十二月(師走)がわずか二日で終わってしまったのです。当時の庶民のあわてようは想像に難くない。
 なぜこれほどのスピード実施になったのかというと、明治政府の財政危機があったという。翌年の明治六年は旧暦で閏月があり一年が十三カ月になり、官吏の給料を13回支払わなければならず、その他の出費もかさむ、いっそ太陽暦を採用すればその心配もなくなり、その上明治五年の十二月も二日しかなければ、十二月の給料までもまるまる節約できると考えたのです。乱暴な話ですが、これがスピード改暦の真相だったとか。
 むろん表向きは、欧米に追いつけ追い越せ、脱亜入欧の富国強兵が急務だった日本において、日本暦と西洋暦との間で起こる暦のズレは深刻な問題だったので、改暦は時流ともいえたでしょう。しかも改暦の急先鋒だった福沢諭吉などの存在を考えても、改暦は必然でした。
 事実、明治四年の夏ごろには、政府内で密かに太陽暦採用の検討が行われてようですが、この時点ではまだ採用の方針が決まっていませんでした。その証拠に政府は、全国の暦屋を統合した領暦商社を結成させ(明治五年三月二十四日正式に承認)、二月には翌年の暦の原本を下げ渡し1万円の冥加金を上納させ、同年十月朔日、全国一斉に発売されました。暦が発売された一カ月後、政府はいきなり改暦の詔書をだしたのですから領暦商社の驚きは尋常ではなかったと思われます。1万円上納金を納め、4万円に迫る損害金を出したのですから、まさに政府にだまし討ちにあったようなものです。
 
■改暦の反響
 この改暦、スピードだけでなくかなり強引でもあったようで、当時の人々の混迷ぶりは相当なものがあったようです。従来の年中行事や慣習がめちゃくちゃになったことは言うまでもなく、当時の新聞から拾ってみるとこうです。
「世の中の絶無の例とされていた晦日に月が出るようになった」「十五日に仲秋の月もなく、三十日(みそか)に月の出る代と変わりけり」「三十日に月もいづれば玉子の四角もあるべし」
さらに深刻だったのが、地方の農家でした。従来の慣習によらないと種まきから収穫までさっぱり見当がつかなくなったのです。
 また季語を命とする詩歌俳諧の世界も大混乱を被りました。
「同じき年の冬(明治五年)十一月に布告ありて、来月三日は西洋の一月一日なれば吾邦も西洋の暦を用ふべしとて、十二月は僅か二日にして一月一日となりぬ、されば暮の餅つくこともあわただしく、あるは元旦の餅のみを餅屋にかひもとめて、ことをすますものあり(中略)、詩歌を作るにも初春といひ梅柳の景物もなく、春といふべからねば、桃李櫻花も皆夏咲くことになりて、趣向大ちがいとなれり」(浅野梅堂『随筆聽興』)
・・・後略・・・
 
一切の迷信的な暦注を掲載しなくなり、明治末年には旧暦の記載も中止された。しかし、一般庶民の間では吉凶付きの暦注や旧暦に対する要求が高かった。


そこで、吉凶判断などを記載した偽暦が、官憲の追及を逃れて神出鬼没的に多数出版され、これらの暦は「お化け暦」と呼ばれた。
  
*
 
先週、前進座の創立80周年記念10月公演を吉祥寺にある前進座劇場で観劇した。
 
出し物は「明治のおばけ暦」。
 
「おばけ暦」が世に出るまでの経緯を中心に、当時の世相を上手く取り入れ、盛りだくさんのエンターテイメントに仕上げたのが、劇作家の山本むつみ
 
彼女が2007年秋に書いたラジオドラマがこの「明治おばけ暦」。
 
このラジオドラマは前進座のユニット出演により放送文化基金賞を受賞したが、「中身は舞台向き。歌舞伎とリアリズム演技が共生する前進座の舞台を観たいと思った。」と当時のNHKディレクターの保科義久は述懐していた。

そして遂に今年その舞台が実現した。
 
公演開始まえの準備風景はこんな感じらしい。
 
   
 
あえて内容を書くよりも、主役の嵐芳三郎と山本むつみの対談を、2011年9月1日号 「月刊前進座」より紹介しておく。
 
思わず笑っちゃう楽しいお芝居に
− 物語は明治5年ですね。
むつみ新旧入り混じり、変化に富んだ複雑な時代です。
芳三郎散切の人もいれば髷を結っている人もいる。明治の雑踏というかエネルギッシュな感じを出さなければいけないなと。面白い本に仕上げていただいたので、役者の責任が大きいと感じています。真面目さも必要ですが、肩の力を抜いた軽妙さが大事、カチカチになっていたら絶対だめだと思います。
むつみこの作品の芯には、「人間を置き去りにして国の論理で時代が作られていくこと」への、異議申し立てのようなものがあります。でも、それをひたすら深刻に訴えても、観ている方の心には響かないと思うんですよ。テンポよく話が進んでいく中で、笑ってご覧いただきながら、「あれー、こんな理不尽なことが起きていたのか」と、気づいていただけたらいいなと思います。
芳三郎このテーマって重く芝居をしがちですけど、そういうのをちゃんと排除して演じていかないとだめですね。
むつみこの間の『唐茄子屋』も、かなり力を脱いた演技で、よかったですよ。
芳三郎ありがとうございます。お芝居って演じる方に力が入ると、お客さんはのれないですものね。
むつみ熱演とか熱唱をするとなんかいいような気になりますよね……
芳三郎やった気になっちゃうんですよ。
むつみ書くのも似たところがあります。力の入ったシーンばかりだと、全体が平板になってしまうので、シリアスな場面にフッと日常の一言を入れたりして空気を変えるようにしています。これを書いている時も、結構肩に力が入っていたんですよ。時代背景もきっちり入れて良いものにしよう、なんて意気込んで。でも、ところどころ笑いがないと、書いていても退屈してしまうんです(笑)。それで、ここらへんでちょっと笑いを……みたいに。
芳三郎ちょっとしたところに、すごくいいセリフが入ってきて。「今日は喧嘩口論は大凶の日なのに」なんて、思わずぷっと笑っちゃいました。こんなの真面目に言ったらちっとも面白くない。芝居って最初の30分がすごく大事なんです。この序幕をわれわれ演技陣がむつみさんの狙われた通りの軽妙さで、きちんとお客さんに伝えられれば、第一ハードルは突破ですね。
むつみ栄太郎はふっとでる言葉が暦に関係しています。「暦なんかさ、芝居の方が楽しいよ」なんて言っていますが、性根は代々続く江戸暦問屋の若旦那なんですよ。まずは序幕で、お客さんを明治の世界に連れて行けたらいいですね。
  
暦を治めることは世界を治めること
− ラジオドラマで『明治おばけ暦』を書かれたきっかけは……。
むつみものすごく遡ると、船戸与一さんの「砂のクロニクル」という小説を読んだことがきっかけでした。クルド民族の独立運動が背景になっているのですが、西暦の他にペルシャ暦やイスラム暦が書かれていました。暦を定めるということは、支配者が時間と空間を決めることだと、これで知ったんです。
− 全国カレンダー出版協同組合連合会の会長さんが、暦は大昔から権力者が政治をするための道具として利用してきたと……。
むつみ

日本では明治に旧暦から新暦に替えたわけですが、それが大変急な変更だったことと、切り替えを急いだ本当の理由を知った時はびっくりしました。こんな無茶をやったら、さぞ混乱が起きただろうなって。
確かに、旧暦のままでは西洋諸国とやっていけませんから、暦を替えなきゃいけないというのはわかります。でも、一般の生活の暦は一、二年かけてゆっくり替え、外交上必要なものだけを西暦にする方法だってあったと思うんですよ。でも、いきなりですからね。明治という新しい日本になったということを万民に知らしめるためには、暦を替える必要があったのでしょう。明治政府というのはかなり乱暴で、血なまぐささもはらんでいます。この時の急激な近代化が、やがて戦争の時代へとつながっていくんだと思いました。

posted by 定年オジサン at 12:40| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月18日

未知との遭遇

数ある有名企業の中でも、伝統や形式にこだわり過ぎて、経営者の思考にも会社の運営姿勢にも「ヤル気」は十分感じられるのだが柔軟性が足りないために、情熱的で一生懸命なのは良くても、変にぎこちないガチガチした動きで暑苦しさやイライラ感すら覚える雰囲気が社員の接客態度にも明確に現れている、ハッキリ言ってウザい「株式会社」を揶揄する表現として、最近ではあまり言わなくなくなったが「歌舞伎会社」と表現することがある。
 
その語源である「歌舞伎」の世界にオジサンは初めて遭遇した。 
 
演劇関係にツテを持つ知人の女性から、1週間前にこんな電話があった。
 
「 定年退職して昼間に比較的時間がある人にしか勧められないのだけれど、歌舞伎の券が2枚あるのよ。来週の平日午後なんだけれどどうでしょうか?」
 
在職中にも一度そのような話を持ちかけられたことがあったが、わざわざ貴重な有給休暇を使ってまで、歌舞伎なんか見たくはない、という気持ちからすげなく断ってきた記憶がある。
 
しかし退職して「サンデー毎日」となると、不思議と余裕を持ってそのお誘いに乗ることができた。
 
「場所は新橋演舞場で席は2階の5列なので大変よく見られる席ですよ」
 
とりあえず、その券を自宅に郵送してもらうことにして電話を切った。
 
2日後にその券は郵送されてきた。
 
11月1日初日の「吉例顔見世代歌舞伎」という見出しの案内も同封されていた。
 
その券は、「招待券(非売品)」と書いてあり、その席はホームページで調べたらギリギり「一等A席」に入っていた。
 自分で金を払うなら決して行くことはない今回の歌舞伎見物。
 
早速、その日の晩にオバサンにも話をして夜の部の18時過ぎからの演目を見ることにした。
 
 
当日、事前に弁当を買ってもらった仕事帰りのオバサンと待ち合わせして、大江戸線の「築地市場」で下車して小雨の中を新橋演舞場に入った。
 
あと数分で幕間になるという時間だったが予定通りであった。
 
保証金1000円で使用料650円のイヤホンガイドを借りて早速エスカレータで2階に上がり、幕間になり場内から予約した店に夕食を食べに急ぐ客を避けながらに中に入っていく。
 
「5列25番・26番」は中央より若干下手の位置にあり、花道は半分くらいしか見えない。
 
その席には既に老婦人が2人、荷物を置いていたので、6列目の空いている席で買ってきた弁当を食べ始めた。
 
手際よく、オバサンの手には缶ビールとプラスチック製のコップが収まっていた。
 
弁当と思った四角な箱は、9種類の様々なおかずがつまみ風に入っているものだった。
 
思わず、「さすが酒飲みの女房だ!」と心の中で感謝しながら、短時間でつまみとビールを平らげた。
 
借りたイヤホンガイドを耳にすると次の演目の紹介が流れていた。
 
幕間が終わり舞台の幕が上がった。
 
演目は「梅の栄」で長唄囃子連中と筝曲連中が舞台上手に座っている。
 
そして中央から「佑太郎」「暁之丞」「修之助」「駒之丞」の4人がせりから上がってくる。
 
彼らはいずれも10代の若手役者。
 
4人の舞が終わると花道から梅野を演ずる中村芝翫が、雄吉郎を演じる中村種太郎と親子の梅の舞を演ずる。
 
とても今年82歳とは思えないしっかりした踊りをする中村芝翫。
 
オジサンはただ漠然と見ていたが、若い頃日本舞踊を習わされていたらしいオバサンは食い入るように見ていた。
 
20分ほどの踊りが終わり短い幕間となる。
 
トイレに行った帰りのオバサンの手には、今度はプレミアムモルツの生ビールがあった。
 
マグロの中トロ弁当を肴に生ビールを飲み始めた頃に、最後の演目の幕が上がった。
 
 
  三、傾城花子 忍ぶの惣太
  都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)
   序 幕 三囲稲荷前の場
       長命寺堤の場
   二幕目 向島惣太内の場
   三幕目 原庭按摩宿の場
 
          忍ぶの惣太/木の葉の峰蔵     菊五郎
  傾城花子実は天狗小僧霧太郎実は吉田松若丸 菊之助
                葛飾十右衛門        團 蔵
                  下部軍助         権十郎
                 吉田梅若丸         梅 枝
                 植木屋茂吉         男女蔵
                御台班女の前        萬次郎
                    お梶          時 蔵
                 宵寝の丑市       歌 六
 
まあ芝居の詳細は省くが、歌舞伎の演題というのか外題というのは、とても読みにくい。 
 
ほとんどが漢字の羅列みたいなのだが、そもそも外題には縁起を担いで伝統的に「割りきれない」奇数の字数が好まれるらしい。
 
確かにパンフレットを見てみると、昼の部では「天衣紛上野初花」、夜の部では漢字だけではないが「ひらかな盛衰記」。
 
『義経』や『四谷怪談』のようにどうやっても割れてしまう字数には、あえて「千本櫻」や「東海道」などの奇数の字を付け足して『東海道四谷怪談』や『義経千本櫻』などいった長い外題としたという。
 
昔テレビで歌舞伎の一場面などを見たときには、なんと時代遅れの浮世離れしたものをやっているんだ、という気持ちが強かった。
 
段々齢を重ねて、実物を真近で見ると若いときの気持ちがいつの間にか飛んでなくなっていた。
 
特に、菊五郎菊之助親子の芝居は、伝統ある、独特の世界で長い間培われた芸なのだと改めてオジサンは見直していた。
 
歌舞伎の世界を僅か数時間垣間見ただけなのだが、帰りの道はなんとなく充足した気分でオバサンと帰宅した。
 
帰宅して気がついた。

「そうか今日は結婚記念日だったんだ」と。
posted by 定年オジサン at 14:29| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

モンテンルパ

歴史上は、1937年7月7日の盧溝橋事件で日中戦争が勃発したと記されている。
 
その4年後、真珠湾を攻撃され参戦したアメリカは中国の支援を始め、フィリピンを中国への物資の補給路として使用した。
 
当然、日本はアメリカの中国への支援を断つべく、1941年にフィリピンに侵攻することになった。
 
その後、日本の占領下では、
 
  ・ 英語の使用禁止(使えるのはタガログ語と日本語のみ)
  ・ 日本兵士や捕虜のための強制労働
  ・ 大量虐殺
  ・ 村々への放火
  ・ 女性や子供への暴行
 
等々、お決まりの日本兵の蛮行が行われた。
 
しかし現実は、段々と武器も食料も乏しくなり、大本営からは「現地での自立調達」という命が下っていた。
 
これはとりもなおさず、フィリッピン人への略奪へとつながる。
 
そして日本は1945年に敗戦し、1946年の7月4日、 日本の支配から抜け出しフィリピン共和国が成立した。
 
しかし、日本人の戦後は依然続いていた。
 
1951年1月19日夜、太平洋戦争が終わって6年経ったにもかかわらず、フィリピン・ニュービリビッド刑務所(通称:モンテンルパ刑務所)には100名以上の元・日本兵が囚われていた。
 
その日、14名の日本兵が突然に呼び出され、死刑に処せられた。そして、極秘に行われた死刑は、焼け野原からの復興に沸く日本には届かなかった。・・・・・・
 
このような歴史の背景で、太平洋戦争前、戦中に数々のヒット曲を放つ国民的人気歌手・渡辺はま子が歌っている背後で、絞首刑されるシーンで開演した「奇跡のメロディ 渡辺はま子物語」。
 
「観劇」なんて何年ぶりだろう。少なくとも、うちのオバサンと観た記憶はない。
 
今回の観劇は、オバサンが25%以上も割引になる鑑賞券を入手したことから始まる。
 
いつもそうであるが、オジサンは最初はまったく興味が無かった。
 
いくら安くなるといっても、定年オジサンなら普通の映画が6本も観られる金額である。
 
場所は、元「芸術座」が改名した「シアタークリエ」。
 
「渡辺はま子」という歌手の名前くらいは知っていたが、オジサンの父親の世代の歌手である。
 
最盛期の彼女はまったく知らず、晩年は認知症と脳梗塞をわずらい、寂しい最後だったといわれている。
 
そんなわけで大した事前知識も無いままに開演を迎えてしまった。
 
主役の44歳になる二児の母である斉藤由貴が、当時の渡辺はま子は、こんなにきれいだったんだろう、と思わせるような雰囲気で「蘇州夜曲」を歌っているオープニングシーン。
 
戦時中に歌ったヒット曲が、日本国民の心を中国大陸へと駆り立てて、結果として、日中両国の人々に犠牲を生んだことを忘れることができない渡辺はま子。
 
その後悔の念から、はま子は戦後、自身の歌手活動も顧みず、巣鴨プリズンを慰問に訪れていた。
 
そんなある日、はま子はフィリピンの刑務所で行われた元日本兵の処刑を知らされる。見逃すような新聞記事でしか世間に伝えられなかった14人の死の真実を知るために、はま子は復員局を訪ねる。
 
終戦後7年が経ち、すでに復員局はかなり規模を縮小していた中、たった一人のフィリピン担当・植木信吉は、はま子が知らなかった、戦争の悲劇を告げる。
 
反日感情の根強いフィリピンのモンテンルパにある刑務所には、戦犯となった元・日本兵が108人も投獄されている。
 
しかも彼らの多くが、証人として名乗り出たフィリピン人に指を差されると、詳しく事実関係を調べることもなく有罪、死刑となり、また死刑になった14名のうちの数名も該当の事件が起こった地域へ行ったことがないという有様だった。
 
・・・・と舞台は進むのだが、モンテンルパ刑務所に収容されている10名の役者に、当時の戦争の非条理さやむなしさを語らせている。
 
 「そもそも、俺たちは学徒出陣で徴兵されてきたんだぜ」
 
 「ほとんど訓練もろくに受けずに戦地に飛ばされ、武器も食料もなく、どうして自分で調達するんだ」
 
 「なんで俺たちが戦犯として死刑にならなければならないんだ」
 
 「それは敗戦した日本人の責任者として俺たちが犠牲になるってことよ」
 
 
「8月の戦争ジャーナリズム」が終わって、多くの人々はまた1年間、戦争のことを忘れ始め、日常の忙しさに振りまわされる。
 
9月の秋風を肌で感じるようになり、この劇を見終わった後、戦争によって犠牲になるのは、いつも弱い立場の人間たちであり、戦争責任を取らなかった当時の大元帥や、本当の戦犯たちの一部やその子孫は今でもぬくぬくと生きているこの日本。
 
国際的に大人になる日はまだまだ遠いように感じてしまった。
ラベル:戦犯 渡辺はま子
posted by 定年オジサン at 11:49| 神奈川 ☔| Comment(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする