2016年09月11日

デレク・ブラウンの世界-2

新境地「BEATBOX SAX」で知られるデレク・ブラウン (Derek Brown) の演奏。
 
廃墟のような倉庫内のサックスが、まるで弦楽器のように鳴り響く「バッハ 無伴奏チェロ組曲」のさわりの部分をお届けします。
 
今日は出かけています。
 
「つぶやき」はお休みしますが、デレク・ブラウンの「ビートボックスとの融合」の愕くべきサウンドをお楽しみください。 
 
【デレク・ブラウンの世界-2】
 

 
参考までに、本来の演奏はこのようにチェロで演奏される。(フルバージョンです)
 
聴き比べてください。
 
【Mischa Maisky plays Bach Cello Suite No.1 in G (full)】



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2016年09月10日

デレク・ブラウンの世界-1

新境地「BEATBOX SAX」で知られるデレク・ブラウン (Derek Brown) の演奏。
 
深夜の街角や廃墟のような倉庫内で鳴り響く音がとてもサックスだけとは思えない。
 
空間を埋め尽くす "音" がヘッドフォン越しでも、全身を包み込むかのようである。
 
最近、日本でも盛んになっている「ビートボックス」。 

今日から泊りがけの会議に出かけます。
 
いつもの「つぶやき」はお休みしますが、デレク・ブラウンの「ビートボックスとの融合」の脅威のサウンドをお楽しみください。 
 
【デレク・ブラウンの世界-1】
 

 

 

 


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2013年09月22日

旧友の旅立ちと想い出した忘れられない曲

先週末、ある会議に出席中、中学校時代の同級生K君の訃報がオジサンの携帯電話に飛び込んできた。
 
人間の死は第三者にとっては突然知らされてくる。
 
亡くなった本人は双子の兄弟の長男で、その弟から第一報が連絡のつく友人に伝えられ、オジサンにも伝わった。
 
本人の住居ではなく生まれ育った地元での葬儀を遺族は望み、都合のつく日が1週間後となり昨日通夜に行った。
 
オジサンの家からは、市バス、地下鉄、さらに都内では東急バスに揺られて夕刻の魔の渋滞に巻き込まれて、斎場に着いたのは通夜が始まって40分も経っていた。
 
大きな斎場でその晩だけでも6名の通夜が同時に営まれていた。
 
K君は学生時代に白血病(恐らく慢性骨髄性白血病)が発症し、最新の治療薬のお陰で一時は完治まではいかないが、かなり回復したようだったらしい。
 
治療は継続的に受けていたらしいが、先週受診する当日に激しく咳き込み救急外来に連れて行かれたが肺炎と診断され1日間、救命救急センターで頑張ったが翌朝息を引き取ったと、K君の奥さんの「御会葬御礼」に書かれていた。
 
焼香の時、憔悴しきった母親の隣に未成年者3人を含む4人の子どもたちの呆然とした表情が弔問者の涙を誘った。
 
K君は、オジサンと同級生なので享年63歳の短い人生だった。
 

 
昨年度の日本人男性の平均寿命は過去最高の79.94歳となり、世界5位になったという。
 
それから見れば63歳という年齢は「もう一花」も二花も咲かすことができる年齢である。
 
ところが、過去の記録を調べてみると、63歳で亡くなった有名人もかなり存在した。
 
オジサンが知っている名前だけを挙げておく。
 
●檀一雄 作家 
 命日:1976年 1月2日
●スマイリー小原 ジャズミュージシャン 
 命日:1984年 4月30日
●芥川也寸志 作曲家、指揮者 
 命日:1989年 1月31日
●オードリー・ヘプバーン 女優
 命日:1993年 1月20日
●ハナ肇 コメディアン、ドラマー
 命日:1993年 9月10日
●城達也 声優、ナレーター
 命日:1995年 2月25日
 
取り分けこの中では阪神大震災の前の月に亡くなった城達也の名前を発見して思い出したものがある。
 
まずは、この曲。
 
    
    
これはBobby Vintonの「ミスター・ロンリー」だが、1978年作のイスラエル/アメリカの合作映画「グローイング・アップ」のエンディングで使われた挿入歌だった。
 
この挿入歌をオープニングで使用して大人気を博したのがこれであった。
 
   
 
知っている人には特に説明は不要だが。下記の時刻あたりに年度ごとの曲が編集されている。
 
00:00 オープニング (1982年頃 ♪ Mr. Lonely)
02:18 エンディング (1982年頃 ♪ 夜間飛行)
03:52 エンディング (1988年頃 ♪ 夢幻飛行)
05:44 オープニング (1993年頃 ♪ Mr. Lonely)
07:50 エンディング (1993年頃 ♪ The Alluvial Plains)
09:32 Midnight Odyssey オープニング (1994年頃 ♪ Peace (Go Slowly))
11:53 Midnight Odyssey エンディング (1994年頃 ♪ Robinson Crusoe)
13:42 城達也 最終の放送 エンディング (1994年12月30日 ♪ Mr. Lonely)
 
城達也は最後の放送の後、2ヶ月後に帰らぬ人となった。
 
その伝説的なナレーションを紹介する。(1993年頃) 
 
☆オープニング・ナレーション☆
遠い地平線が消えて、
深々とした夜の闇に心を休める時、
遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、
限りない、宇宙の営みを告げています。
満天の星をいただく果てしない光の海を、
豊かに流れゆく風に 心を開けば、
煌く星座の物語も聞こえてくる、夜のしじまの、  
なんと饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかな地平線も、
瞼に浮かんでまいります。
日本航空が、あなたにお送りする
音楽の定期便。「ジェットストリーム」。
皆様の、夜間飛行のお供を致しますパイロットは、
わたくし、城達也です。
 
★エンディング・ナレーション★
夜間飛行の、
ジェット機の翼に点滅するランプは、
遠ざかるにつれ、
次第に星の瞬きと
区別がつかなくなります。
お送りしておりますこの音楽が、
美しくあなたの夢に
溶け込んでいきますように。
皆様のお相手は私城達也でした。
ではまた明日 午前零時にお会いしましょう。
 
お祭り好きだったK君は亡くなる数日前まで地元の町会の人たちと御輿を担いでいたそうである。
 
祭壇に飾られたK君の遺影は半纏姿だった。
 
今頃は、あの世界のどこかで元気に御輿を担いでることだろう・・・・合掌。
 


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2013年02月23日

ギターの名曲と旧友の思い出

グループサウンズ全盛期の頃育ったオジサンの世代の男は、エレキギターに憧れ手にした者や、フォークギターで自己陶酔している者もが多かった。 
 
オジサンの学生時代の身近な仲間7人の中で、オジサンだけがギターを持っておらず弾くこともできなかった。
 
おそらく、口の悪い連中は「お前は(口)三味線か(ホラ)貝を吹くしかないのだろう」と言っていた。
 
したがって残りの6人はレベルは様々だったが、それなりに弦を爪弾くことはできる連中だった。
 
とりわけ地方の高校出身で都内に一人暮らしの者は、その環境からギターを奏でる時間も豊富らしく上手いヤツがいた。
 
* 
 
オジサンが入った大学のクラスは都内の一流・二流の「予備校」からストレートに入学した者が主流派を占めていた。
 
高校卒業後2年間以上修行を積んで入学した者は重鎮と呼ばれ、高校から寄り道せずに入学した者は少なくとも1歳は年下のため同期ながらも「新入り」と見られ肩身は狭かった。 
 
もっともそんな意味のない肩書きなんかは試験の時には全く通用せず、若い者の方が当然優れていた。
 
そんな優れ者の中にギターがメッチャ上手いi君がいた。
 
千葉県の田舎の町の本屋の息子とかで、おそらく幼少の頃から本に囲まれた生活をしてきたらしく、勉強熱心な読書家でもあった。 

大学1年の秋の試験が終了した後、数名で彼の下宿先を訪ねたことがある。
 
サントリーレッドという着色ウィスキーを飲みながらすき焼を腹一杯食ったあと、彼はおもむろに愛用のギターを取り出して、やはりギターを持っているE君ににこんなことを言っていた。
 
「おい、Eよ、アルペジオができるようになったか?」
 
   
 
残念ながらその時の彼等の会話にはオジサンは入ることができなかった。
 
しかし彼がギターを手にして右手の指をせわしく動かしながら奏でる曲は、初めてギターで聴いた曲だった。
 
その時オジサンの耳に入ってきたのは、フランシスコ・タレガ作曲の「アルハンブラの想い出」という曲だった。
 
   
 
当時、これほど上手く彼が弾いたかは記憶はないが、その時の余韻は今でも頭に残っている。
 
「アルハンブラの想い出」という曲は一般には「アルハンブラ宮殿の思い出」として知られている。
 
   
 

 
大学卒業後は毎年必ず年賀状の交換をしてきた。
 
オジサンがまだ独身の頃彼の結婚式の司会をしたことから彼の妻とは結婚式前から面識があった。 
 
しかし彼からの年賀状には一切家庭のことは書かれていなかった。
 
それが、昨年、突然写真付の年賀状が届いた。 
 
   20130223ishi01.jpg
   
写真見て驚いた。
 
得意のギターではなくリコーダーを習得していたのだった。
 
何でも地元のリコーダークラブの中心人物らしい。
 
   20130223redorderclub.jpg
    
そして今年の年賀状はさらに彼は進化していた。
 
   20130223ishi02.jpg
   
同じ弦楽器といってもギターとバイオリンでは素人のオジサンでも違いが分かるし、バイオリンはそんな短時間では習得できないことも知っている。

それを短時間でものにしたらしい。
 
人間は年齢と共に少なくなるものと増えるものがある。
 
増えるものの中にはどちらかといえば健康によくないものが増える場合が多い。
 
しかしi君は着実に新たな技術を還暦を迎えた後に増やしている。

楽器といえば精々「想い出のクラリネット」を持っているだけのばオジサンなのだが、彼は年輪を刻むように新たな楽器に挑戦しているようで、来年の年賀状が今から楽しみである、とオジサンは思っている。


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2012年10月13日

初めてのデュエット

サラリーマンが職場での「公式な飲み会」、たとえば「歓送迎会」とか「○○部長の昇進祝い」なんかには、必ず上司と呼ばれる管理職らしき人物が出席する。
 
そして、最初の宴会が終われば、もうお決まりの「カラオケ」2次会へとなる。
 
もっとも、オジサンの在職中で若い頃は団体で入れるような「カラオケ」店は少なかった。
 
したがって職場の上司とそのような店には行った経験がない。
 
世間でよく耳にするのは、職場のカラオケ好きな上司がいて、いつも若い女性がカラオケで「デュエット」を強要されるという話だった。
 
憧れの上司とのデュエットならば、最近で言うところのセクハラは発生しない。
 
しかし、そんな上司は映画かドラマの中のお話であり、現実には単なる「酒に酔った嫌な上司」がほとんどであろう。

「セクハラ」という言葉が馴染みのない時代で、しかも相手が取引先の顧客の管理職ともなると、デュエットの強要を簡単には断れないこともある。
 
年齢が上がるにつれて部下に若者が増えても、若い女子社員とは社員旅行先でテニスのダブルスをやったくらいで、デュエットの経験はない。
 
40代になった頃、仕事の打ち合わせで大阪出張の際に研修を兼ねて新人の女性社員と男性社員を連れて行ったことがある。
 
顧客との打ち合わせも済み、担当の次長さんから夕飯に誘われ、オジサンを含め3人はご馳走になった。
 
その後、その次長さんが「俺の店に行こう」とわれわれを北新地の小さな家庭的なスナックに案内した。
 
どうやら彼のお目当ては、オジサンが連れてきた新人女性とのデュエットだった。
 
そこそこにウィスキーの水割りを飲んだ頃、おもむろに彼は「○○さんは、あの歌を一緒に歌えるかい?」と彼女に聞いてきた。
 
彼女はビックリして「私はその曲は知りませんし、歌はダメなのです」と、正直に顧客に言ってしまった。
 
実は、オジサンもその曲は全く知らず、上司として上手くフォローすることができなかった。
 
最近のスナックならば店にはお客と一緒に歌える女性従業員がいるのが普通なのだろうが、その店は次長さんのなじみの同年代のママしかいなかった。
 
結局、その次長さんはデュエット曲を一人で歌いきってしまった。
 
その時の曲がこれであった。
 
 
 
恥ずかしいことに、オジサンはその歌詞を聞いて「北空港」は北新地にある空港と思い込んでいた。
 
その後の僅か1時間くらいがオジサンにとっては永遠に終わらないくらいに長く感じたことを今でも鮮明に覚えている。
 
もちろん、大阪出張するような仕事はなくなった。
 
東京に帰ってからは、いつかスナックにでも行ったらデュエットしようと必死にその曲を練習したものであった。 
 
たまに、デュエットする機会があって「北空港」を歌うと、20数年前の困惑した新人女性と不満だらけの中年男性の顔を懐かしく思い出す。
 
パブとかスナックとかでは、男性同士で行くのデュエットの相手は店の女性従業員であり、相手に恵まれれば自分も上手くなったように錯覚するものである。
 
そんな錯覚が高じて、「練習用カラオケテープ」を買ってきて数曲入っているテープをSONYのWALKMANでよく聞いたものであった。
 
「練習用カラオケテープ」は、その曲を歌った本人ではなく名は知れないが、楽譜どおりに正確に発声する人が歌っている。
 
したがって、変な癖がなく大変覚えやすいという特徴があった。
 
練習の成果を披露する機会に恵まれ、歌ったのがこの曲であった。
 
  
 
この曲の特徴は、ほとんどが女性のパートであり、男性パートは精々一緒に歌う箇所くらいであって、相手の女性が上手くないと成立しないデュエットであった。
 
ところが、この曲を一緒に歌ってくれる店の女性は皆な歌唱力があり、オジサンはなぜだか同じ女性とは2度と歌ったことがない、というよりは歌ってくれなかったと言ったほうが正確かもしれない、デュエット曲であった。


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2012年09月20日

初秋の歌談の会

作曲を始めてから40年近くで作った曲が著作権協会に登録してあるものだけで2000曲を超えており、他の歌手に提供した曲は300人にのぼるという、シンガーソングライターの小椋佳。
 
オジサンは彼の歌との出会いとそれがきっかけとなったオバサンとのことを「最初にもらったテープ」でつぶやいた。
 
そして、昨年の10月に「シクラメンのかほり」で、10年以上も前から小椋佳のプロデュースイベントに出演していた高橋孝という青年を紹介した。
 
川崎市文化財団グループの「ミューザ川崎シンフォニーホール」で開かれた小椋佳のコンサートに行ったのは、6年前だった。
 
そのホールが3.11の大震災で天井が崩落してしまい、その後定期的なコンサートは市内各地の市民ホールなどで開催されることになった。
 

 
8月も最後の週になろうとしていたある日の朝刊に地元の市民ホールでの小椋佳のコンサートの「お知らせ」が掲載されていた。
 
テレビ通販などで即座に電話で申し込むという機動性に富んでいるオバサンは、早速電話で申し込み座席まで予約していた。
 
その後、数日経って炎天下を歩いて近くのコンビニにチケットを買い行った。
 
この歳になってコンビニでこのような催し物のチケットなどを入手したのは初体験だった。 
 
そして昨夜、少々仕事でストレスが溜まりつつある仕事帰りのオバサンと駅で合流し、市民ホールに向かった。
 
開場前にも関わらず多くの観客がすでに待機していた。
 
開場後、入り口でもらった小さなパンフレットに「小椋佳『歌談の会』」とだけ書いてあった。
 
「歌談の会」とは、パンフレットにはこう説明されていた。
 
「大がかりな編成で行われるコンサートでもなく、長々と堅苦しい話をする講演会でもない、小椋佳が心に浮かぶ話を普段着の姿勢でゆったりと語り、気の向いた曲を歌いつづるソング(歌)&トーク(談)ショー。」
 
そして本人は、
「銀行生活も終わり、それから五十過ぎて二度目の学生生活も終わったら、歌いに来てくれというお話をずいぶんいただくようになりました。そこで、全国の市町村をぶらりとお邪魔して、歌ったり談じたりする1時間半か2時間のステージをやることが増えました。それを『歌談の会』と呼んでいます」
と語っていた。
 
18時半の開演と同時にステージに現れた小椋佳。
 
「普段着の姿勢」なのだが、身に着けているものは遠くからでもかなり高級感が感じられた。
 
オープニングは初期のヒット曲「しおさいの詩」。
 
♪しおさいの浜の岩かげに立って♪という詞なのだが、海とはまったく無縁のところで作ったという有名な逸話がある。
 
早速、「心に浮かぶ話」が始まる。
 
「先日、あるところの会では、私があんまりおしゃべりし過ぎて、曲が4〜5曲しか歌えなかったのです。ですから今日は、しっかりと歌わさせていただきます」 
 
銀行員時代に作ったという「汽車」。
 
また、話が始まる。
 
「私が銀行に入ったときは、勧業銀行と呼ばれていました。その銀行のイメージは薔薇の花でした。この花で行員やお客さまを洗脳していたわけです。朝礼でも『赤い薔薇・・・・』と歌わされました。入行して3年目に留学生としてノース・ウエスタン大学に行きました。そこの寮で3日遅れの日経新聞をある日読んでいたら、突然『第一勧業銀行』となってしまい、あの薔薇はなくなりました。今でも当時の人事部への怨念は残っています」
 
といいながら、「少しは私に愛をください」を淡々と歌う。
 
ストーリーがしっかりと出来ている。
 
その後、引き続いて懐かしいイントロが流れ、既に会場からは手拍子が聞こえてくるのが「さらば青春」。
 
暫くして本人のみが休憩と称して舞台から消えて、ゲストの高橋孝がお得意の喉を披露。
 
もう一人のゲストが最初からピアノを弾いていたソプラノ歌手の廣田美穂。
 
この2人は、小椋佳が作詞作曲してあげた300人くらいの歌手の中でも、本当に素晴らしい声の持ち主と認めていた若者(?)。 
 
その初めて他人に曲を提供をしたという「シクラメンのかほり」を歌う。
 
かなり小椋節で気持ちよく歌っていた。
 
1978年、NHKの依頼で「マルコポーロの冒険」取材のため、シルクロードを旅したのだが、2年後、「聞いたこともないシルクロード物語」が刊行され、その中のひとつを脚色し高橋孝や廣田美穂が声の主役で、語り部が小椋佳というお馴染みの「歌綴り」が30分ほど続き、そろそろ最終ステージに近づく。
 
やはり最終曲は、人生の不思議、喜びを歌った「愛燦燦」。
 
「僕ひとりではこんなにヒットしなかったのですが、ひばりさんのお陰です」
 
多くの余韻を残して幕が降りるとカーテンコールが鳴り止まず、再び幕が上がり小椋佳だけが出てくる。
  
舞台上ではバンドメンバーは当然、待機中なのだが、民謡歌手の高橋孝も津軽三味線持ってスタンバイ。
 
おもむろに椅子に座った小椋佳が発した一言。
 
「僕はいつも思うんですよ。この悪しき習慣が・・・・」と語り始めるいつもの「欲」の話。
 
様々な人間の欲を列挙しながら、普遍的な欲は「生きたい」という欲ではないか、という流れから用意していたアンコール曲に入る。 

「山河」
  作詞:小椋 佳
  作曲:堀内孝雄
  歌 :小椋 佳

人は皆 山河に生まれ、抱かれ、挑み、
人は皆 山河を信じ、和み、愛す、
 
そこに 生命をつなぎ、生命を刻む
そして 終(つ)いには 山河に還る。
 
顧みて、恥じることない 足跡を山に 残したろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。美しいかと。
 
歳月は 心に積まれ 山と映り
歳月は 心に流れ 河を描く
 
そこに 積まれる時と、流れる時と、
人は誰れもが 山河を宿す。
 
ふと想う、悔いひとつなく悦びの山を 築けたろうか
くしゃくしゃに嬉し泣きする かげりない河を抱けたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。
 
顧みて、恥じることない 足跡を山に 残したろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。美しいかと。
 

もともと「山河」は、五木ひろしのために作られた曲だが、五木ひろしが“大きな曲、残る曲”といった「特別」な曲として依頼して出来た曲、と前に聞いたことがある。
 
しかし、この“哲学者・小椋佳”の詩は、何ともデカイ。
 
何度聴いても最後に腹にドーンと響き渡る曲である。
 
再び幕が降り場内が明るくなった時、あちらこちらの座席から満足した「老老男女」たちが立ち上がった。
 
68歳の還暦組の大先輩である小椋佳にまたもや元気をもらった晩であった。 

タグ:小椋佳
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2012年09月16日

想い出のGS時代

三連休の真ん中の日。
 
家でごろごろしている人は少ないのかもしれない。
 
「連休なんか関係ない」とばかりに休日出勤をしている人もいるかもしれない。
 
昭和の末期は別名「バブル景気時代」と呼ばれていた。
 
敵性語(今では死語か)を好まない人たちは「泡沫景気」と呼んでいた。
 
何しろ、土地を買えば必ず値上げするという「土地神話」により「土地転がし」が横行し、公開されたNTT株で大儲けするというような株を買えばこれもまた値上げする「財テクブーム」が登場した時代であった。
 
連日の深夜残業をしていたオジサンの家には、「24時間戦えますか」のCMコピーに乗せられて「リゲイン」が常備されていた。
 
深夜残業の疲れを癒すためには、一緒に仕事していた若者を連れて飲酒の後のカラオケが常だった。
 
ごく普通の店で明け方まで仲間と歌っていたときは隣の住民から苦情が出る始末だった。 
 
岡山県において、廃車になった貨物列車/トラックのコンテナを改造して設置したのが始まりとされるカラオケボックスを出張先ではよく利用したものであった。
 
まだ、カラオケ専用ルームとか最近主流のカラオケハウスなんかが登場する前だった。
 
仕事先の客たちをと一緒に行くカラオケは、当然歌いたい連中が多く、一人が歌っている最中に他の連中が自分の歌いたい歌を登録しているので、1曲歌い終わると暫くは他人の歌を苦痛を我慢しながら聴く振りをするしかなかった。
 
そんな歌い方に嫌気を差して、暫くはカラオケからは遠ざかっていた。
 
バブルが崩壊し、平成になり世の中が大きく変わってしまい、オジサンの周囲からはカラオケに行く連中がいなくなっていた。
 
加齢と共に新しい歌を覚えることが苦痛となる。
 
毎日、通勤や通学でヘッドフォンつけて新曲を聴いている若者のような真似は出来なかった。
 
必然的に、10代〜20代の頃に聴いた古い曲が歌えるカラオケの主流となった。
 
古い歌の代表は、昔のGS(ガソリンスタンドではない)の数々のヒット曲だった。
 
しかし、彼らの曲も1曲の時間が短く、直ぐに次の曲を歌うまでには多くの苦痛を体験せざるを得なかった。
 
そんなことが数年続いていた頃、願ってもない「グループサウンズメドレー」が登場した。
 
  
   
このメドレーには以下の11曲が収められていた。
 
1 ブルーシャトウ   ブルーコメッツ
2 花の首飾り     ザ・タイガース
3 君だけに愛を    ザ・タイガース
4 スワンの涙     オックス
5 夕日が泣いている  ザ・スパイダース
6 長い髪の少女    ザ・ゴールデンカップス
7 エメラルドの伝説  ザ・テンプターズ
8 想い出の渚     ザ・ワイルドワンズ
9 真冬の帰り道    ザ・ランチャーズ
10君に会いたい    ザ・ジャガーズ
11ばら色の雲     ザ・ヴィレッジシンガーズ

この歌一曲だけで約5分近くになる。
 
当然、長すぎるとの不満を口に出す輩もいるが、切れ目なく続くので途中で終わることが難しい。
 
中には、途中から一緒に歌いだす同年代の連中もいるので、結局最後まで歌うことが可能なのである。
 
最初の歌と最後のフレーズは、日本における歌うエレキバンド=グループ・サウンズの先駆者となった、ブルーコメッツの歌だった。 
この「ブルーシャトウ」の作曲者は井上忠夫であり、その後数多くの作曲を手がけた。
 
「ブルーシャトウ」で9回日本レコード大賞を受賞した翌年には、米国に渡りエド・サリヴァン・ショーに出演し英語バージョンを初めて歌っていた。
 
  
  

 
2000年5月30日にこんな訃報記事が出た。 
 
1960年代に活躍したグループサウンズ「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のボーカル井上忠夫(いのうえ・ただお)さん(58)が、東京・六本木の自宅で首つり自殺したことが30日、分かった。この日午前5時ごろ、自宅階段の踊り場で首をつって死亡しているのを妻洋子さん(50)が発見した。井上さんは自身の目の病気と、病気がちだった洋子さんの看病に疲れていたという。「治らない。ごめん」などと書かれたメモが見つかった。ブルー・コメッツでは自ら作曲した「ブルー・シャトウ」が大ヒットし、解散後は井上大輔の名前で作曲家として活動し、「2億4千万の瞳」「ランナウェイ」など数多くのヒット曲を生み出した。
 
井上さんは3階建て自宅の階段の踊り場から屋上につながるはしごに、ガウンのひもを縛りつけて首をつっているのを妻洋子さんに発見された。洋子さんが近所のコンビニエンスストアの女性店員に通報。店員が巡回中の警察官に届け出た。救急隊員が駆けつけたが、すでに死亡していた。 麻布署によると、井上さんはシャツにズボンの普段着姿で、足元にはA4サイズのメモ書きが置いてあった。洋子さんにあてて「治らない。ごめん」などと書かれてあったという。
井上さんは今年3月、目の網膜剥離(はくり)の手術を行ったばかりだった。術後の経過は思わしくなく「もう1度手術を受けたい」などと周囲に話していた。洋子さんも病気がちで、突然パニック状態に陥るなどの症状で十数年前から入退院を繰り返していた。同居していた洋子さんの母が3年前に亡くなり、子供もいないことから、井上さんが1人で看病していた。これらの心労が重なったことが、自殺の引き金になったとも考えられる。井上さんのマネジャーは「昨日(29日)夜に電話で話をしたばかりなのに。次の仕事も決まっていて意欲を見せていた。自殺をする様子はうかがえなかった」と話した。
井上さんは1960年(昭和35年)にブルー・コメッツに参加。グループの多くの曲を作り、67年楽屋でわずか3分間で作曲した「ブルー・シャトウ」が、当時としては異例の100万枚を超えるヒット曲になった。
グループ解散後は、井上大輔の名前で作曲家に転向。フィンガー5「恋のダイヤル6700」「学園天国」、シャネルズ「ランナウェイ」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」、シブがき隊「NAI・NAI16」など演歌歌手からアイドルまで多くのヒット曲を手掛けた。当時音楽チャートのベスト10には必ずといっていいほど井上さんの作品が入り、「当たり屋」というニックネームもついた。映画「機動戦士ガンダム」の主題歌「哀戦士」を自ら歌いヒットさせたこともある。またコカ・コーラのCMソング「アイ・フィール・コーク」などのCMソングも作曲した。
 今日31日が結婚30周年の記念日だった。井上さんは洋子さんのためにプレゼントとケーキを用意していた。洋子さんは大きなショックを受け、この日は自室にこもったままだった。
 
翌年の2001年9月15日には妻の井上洋子も夫の後を追うように失意の縊死を遂げている。
 
そして彼の死後2年目の2002年にGS時代のメンバーが本格的に再結成した。
 
しかし、井上忠夫の存在は大きく、ボーカルの中心に大きな穴が開いているように感じられた
 
井上忠夫よ安らかに・・・今年は彼の13回忌である
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2012年08月12日

アミンとあみん

国民約30万人(40万人説もあり)を虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称され「人食い大統領」というニックネームもつけられた男がいた。

その名をイディ・アミン・ダダ・オウメというが、2003年8月16日、ジッダの病院で多臓器不全による合併症でこの世を去った。
 
実際のアミンは菜食主義者で、鶏肉しか口にしたことがなかったともいわれている。
 
アミンはウガンダの軍人、大統領、元帥、法学博士の肩書も持ち、身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンや1975年にはアフリカ統一機構議長になったこともある。
 

 
その昔、さだまさしは彼の名前の響きが面白いと思い「パンプキン・パイとシナモン・ティー」(アルバム『夢供養』収録)に出てくる喫茶店の名前を「安眠(あみん)」と名づけた。
 
さだまさしファンだった岡村孝子は、この名前を取って自らのユニット名にした、それが「あみん」である。
 
岡村は、愛知県立岡崎北高等学校を卒業して、一浪後に名古屋の女子大、椙山女学園大学に入学し、加藤は愛知県立小坂井高等学校を卒業後、同じ年に同大学に入学。
 
2人は1歳違いで、同級生である。
 
その出会いは、岡村孝子が大学の教室内で、履修届を書く際に、前の席に座っていた加藤晴子の背中をペンでつついて書き方を尋ねた(もしくはペンでつついて消しゴムを貸してもらった)のが2人の出逢ったきっかけだったという。
 
1981年秋、第22回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に『琥珀色の想い出』で出場し、中部北陸大会で優秀曲賞を受賞したが本選(全国大会)へは進めなかった。
 
1982年春、第23回ポプコンに『待つわ』で出場。5月16日の本選に進出、グランプリを獲得した。
 
  【これは本選で歌ったとき】
  
  
  【グランプリ獲得後の歌】 
 
 
 ◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇
 
 かわいいふりしてあの子
 わりとやるもんだねと
 言われ續けたあのころ
 生きるのがつらかった
 行ったり來たりすれ違い
 あなたと私の恋 いつかどこかで
 結ばれるってことは 永遠(とわ)の夢
 青く広いこの空 誰のものでもないわ
 風にひとひらの雲 流して流されて

 私 待つわいつまでも待つわ
 たとえあなたが ふり向いてくれなくても
 待つわいつまでも待つわ
 他の誰かに あなたがふられる日まで

 悲しい位に私
 いつもあなたの前では
 おどけて見せる道化者
 涙なんていらない
 わかりきってる強がり
 平気で言ってみても
 一人ぼっちの時には そっと涙を流す
 誰も私の心 見ぬくことはできない
 だけどあなたにだけは わかってほしかった

 私 待つわいつまでも待つわ
 たとえあなたが ふり向いてくれなくても
 待つわいつまでも待つわ
 せめてあなたを 見つめていられるのなら

 待つわいつまでも待つわ
 たとえあなたが ふり向いてくれなくても
 待つわいつまでも待つわ
 他の誰かに あなたがふられる日まで
 
 ◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇
  
当時は、楽曲が多大なる共感を得て、デュエットによるハーモニーの新鮮さや清潔感と相まって同年のトップセールスを記録するほどの大ヒットとなるが、あまりの有名さと分刻みのスケジュールで、大学の授業に出ると教授から「芸能人は来るな」と教室を追い出されるというエピソードもあったという。
 
もう30年も前の歌と歌詞なのだが、まったく時代の壁を感じさせない、時空を超えた新鮮さがある。
 
その後、このデュエットは解散し、再び再結成という道を辿るのだが、その「あみん解散の真相 再結成秘話」のこんな番組の録画がある。
 
  
  
最後に、ソロになった岡村孝子が歌い、オジサンのお気に入りでもある、多くの若者に夢と希望を与えYouTubeでのアクセス回数が多い「夢をあきらめないで」を紹介する。
 
  



posted by 定年オジサン at 10:00| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月28日

追悼! ザ・ピーナッツ姉

総会屋とは、日本において、株式会社の株式を若干数保有し株主としての権利行使を濫用することで会社等から不当に金品を収受、又は要求する者を指す。
 
毎年、この時期(3月決算から3ヶ月以内)になると、総会屋連中が、特に問題を抱えている企業の株主総会では暗躍していた。 
 
それも、1981年、1997年の2度の商法改正により、その活動が従来より著しく制約され、株主総会での総会屋の活躍の場はほとんど姿を消した。
 
しかも企業側も株主総会をほとんど同じ日に一斉に開催して、株主からの批判を封じ込めるのが常になった。
 
昨日も、原発所有の9つの電力会社の株主総会が一斉に開催されたが、脱原発を訴える株主の声は全て否決されてしまった。
 
それでも、現在最も関心を集めている大飯原発再稼働を控える関西電力の株主総会は昨年の所要時間より長く、東京電力の株主総会の所要時間を僅かだが1分上回り、9つの株主総会の中では最長だった。
 
しかし時間をかけたが何も変わらない、という事実だけが残り、株主でもないオジサンは空しさを感じるだけだった。
 
*
 
社会面に懐かしい顔写真と共に「伊藤エミさん死去」という訃報記事が載っていた。
 
Web版で調べると、多くの記事は「病気療養中」に死亡したことになっていたが、朝日新聞のWeb版だけは違っていた。
 

<ザ・ピーナッツ姉死去 がん判明1カ月>
  2012年6月28日 asahi.com
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「恋のバカンス」や「恋のフーガ」などのヒット曲で知られる双子デュオ、ザ・ピーナッツの姉、伊藤エミ(いとう・えみ)さん(本名・沢田日出代=さわだ・ひでよ)が15日に死去していたことが27日、分かった。71歳だった。一卵性双生児の妹ユミさん(71)と59年にデビュー。人気番組「シャボン玉ホリデー」のメーン司会や、姉妹で妖精役で出演した映画「モスラ」でも人気を集めた。75年に引退して歌手沢田研二(64)と結婚したが、87年に離婚。引退後はほとんど公の場に姿を見せなかった。
 エミさんは昨年末、妹ユミさんと、公私にわたって親しかった中尾ミエ(66)がレコーディングを行っていた都内のスタジオを訪れるなど元気だった。関係者によると、今年春になって転倒が原因で腰などを強く打ってしまった。なかなか治らないため、精密検査を受けたところ、がんが見つかった。がんはかなり進行しており、入院生活を続けたが、判明から1カ月ほどで亡くなった。最期は妹ら家族にみとられた。実母が昨年亡くなったばかりだった。
 葬儀は既に近親者で営まれた。芸能界引退後、87年2月に育ての親、渡辺プロダクション社長の渡辺晋氏の葬儀に参列して以降、公の場に出ることはほとんどなかった。関係者も突然の訃報に驚いた。
 エミさんは、妹ユミさんと小学校のころから名古屋市内の合唱団に参加し歌手を目指した。59年にザ・ピーナッツとして「可愛い花」でデビュー。音楽家の故宮川泰氏に歌唱指導を受け、「恋のフーガ」「恋のバカンス」など大ヒット曲を連発。ユミさんがメロディー、エミさんがハーモニーの歌唱は一卵性双生児ならではの美しさで聴く者の心をとらえた。
 高度成長期に一世を風靡(ふうび)した。テレビ創生期とも重なり、国民的な人気を獲得したアイドルだった。ハナ肇とクレージーキャッツらも出演した日本テレビ系の音楽バラエティー「シャボン玉ホリデー」の司会に抜てきされ、2人そろってコントも披露。テレビを囲んでの一家だんらんが定着した中で一躍、人気者になった。女優としても映画「モスラ」に姉妹で妖精の小美人役で登場。「モスラや、モスラ〜」と歌う「モスラの歌」は、老若男女が口ずさむほど大ヒットした。
 75年に歌手生活16年で引退する際、エミさんは「惜しまれる時にやめたかった」と話した。その年、沢田研二と結婚したが、87年に離婚。以後は東京・世田谷区内の自宅で、息子とユミさんと3人で静かに暮らしていたという。昭和という輝かしい時代を駆け抜け、静かに逝った。
 ◆伊藤(いとう)エミ 本名・沢田日出代。1941年(昭16)4月1日、名古屋市生まれ。高校1年で故渡辺晋氏にスカウトされ、双子の妹ユミと結成したザ・ピーナッツとして、59年「可愛い花」でデビュー。「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」「恋のフーガ」などヒット曲を連発。人気番組「シャボン玉ホリデー」や映画「モスラ」などに出演。59年から16回連続でNHK紅白歌合戦に出場も、75年4月に引退。同年6月4日に7年間の交際を経て沢田研二と結婚。79年3月に長男誕生も87年1月に結婚12年で離婚。
 
華やかな芸能生活をした人たちの訃報に接して、初めて引退後や晩年の生活を知ることがある。
 
既に離婚していたとか、重篤な病に罹っていたとかいう話は、生前はなかなかメディアには出てこない
 
後輩にあたる歌手や同世代の歌手たちはこんなコメントを出していた。 
 
▽同じ所属事務所だった歌手園まり(68)の話 私は日劇でのザ・ピーナッツさんのショーでデビューしました。私のヒット曲の「逢いたくて逢いたくて」は、ザ・ピーナッツさんの「手編みの靴下」をアレンジしてヒットした作品だったんです。当時は、お姉さんのエミさんに顔が似てるって言われたこともあって、うれしかった。お2人からはドレスをもらったり、芸能界のマナーやファッションなどについてもアドバイスしていただきました。あこがれの存在で、結婚されたり、引退された時はショックでした。このたびは亡くなられたと聞き、本当にショックです。ご冥福をお祈します。

 ▽所属事務所の後輩だった歌手小柳ルミ子(59)の話 亡くなられたとお聞きし、本当にショックを受けています。私がまだ新人のころ、ドレスを下さったり、本当にかわいがっていただきました。ザ・ピーナッツの引退コンサートを聴きに行った私に、お2人が「私たちの分まで頑張ってね」と言った言葉が忘れられません。

 ▽ミッキー・カーチス(73)の話 名古屋のクラブで歌がうまくて評判の子たちで、(渡辺)美佐さん(現渡辺プロダクション名誉会長)に一緒に見に行ってくれって言われて見つけた子たちなんだよ。双子だからか何を聞いてもユニゾンで返事するくらい仲良かったねぇ。またあの歌声を聴きたかったねぇ。寂しいよ。
 
オジサンもザ・ピーナッツの昔を振り返りながら、伊藤エミの追悼の日としようと思う。
 
白黒テレビ全盛時代、小学生だったオジサンが夕方からテレビにかじりついて見ていたのが、この番組だった。
 
 <ザ・ヒットパレード> 1959年6月17日から1970年3月31日
 
  
  
 <シャボン玉ホリデー> 1961年6月4日から1972年10月1日
 
  
 
 父親に連れられて初めて観た怪獣映画で、彼女たちの歌を聞いた。
 
  
 
訳の分からない言葉で歌っていた旋律がとても耳に残っていた。どうやらインドネシア語だったらしい。
 
 ♪ Mothra Ya Mothra Dengan Kesaktian Hidupmu ・・・・
 
 やはり18歳の時のデビュー曲が今聞いても新鮮に聞こえる。
 
  
 
 これはザ・ピーナッツが解散・引退した年に歌ったデビュー曲。
 
  
     
 最後に、大先輩の今は亡き植木等が、まるで伊藤エミの死去に対する弔辞のようなコメントで締めくくる。合掌!!

 
 
  

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posted by 定年オジサン at 12:08| 神奈川 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月23日

スーパーウーマン、八木啓代様

世の中の多くの政治ブロガーの特徴は「現政権批判」であるが、特定の政治家に対する「支持」「不支持」を標榜するものも存在する。
 
その中で最も多いのが民主党元幹事長の小沢一郎に関するブログかもしれない。
 
残念ながら、その他の政治家を熱烈に支援したり、また反対に強烈に批難するようなブログには遭遇していない。
 
それは、評価に値しない政治家が多いからであろう。
 
民主党が政権を取ってから、鳩山由紀夫(最近は友紀夫と改名したらしい)首相や菅直人首相に対する声援や批判は数多く見かけたが、彼らが首相の座を去ってからは多くのブロガーからは無視されている。
 
そのような点から見れば、小沢一郎は良くも悪くも無視できない政治家なのだろう。
 
数からすれば小沢一郎支持のブログが多いのだが、オジサンがたまに覗く「くろねこの短語」に、先日こんな内容が掲載されていた。 
  ■速報!「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」が、2度目の「捜査要請書」を提出!!
 
「○○市民の会」という団体は星の数ほど存在するのだが、中には胡散臭いものもある。
 
最近では、小沢一郎を強制起訴させた「東京の市民団体」なる会が有名であろう。
 
オジサンはこの「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」も当初は「眉につば」つけながら調べてみた。
 
そこの公式ホームベージには「2月17日に東京地方裁判所にて、大量の証拠却下の裁定が下されたことに鑑み、また、その証拠決定書の中で、田代検事の証言した記憶の混同が『にわかには信じがたい』と断じたほか、取調の違法性、組織的関与の可能性にまで言及したことを受け、本日、東京地検刑事部に、再度の捜査要請書を提出いたしました。午前11時より記者会見をいたしました。」とあり、小沢一郎を支援する会かと思った。
 
しかし、2010年10月25日にサイトを開設して以来、精力的に検察当局に対する厳しい監視の姿勢がうかがわれた。
 
オジサンが驚いたのは、その市民の会の代表である八木啓代という女性だった。
 
彼女の公式サイトの華麗なるミュージシャンとしてのプロフィール内容と厳しく東京地検などを追及するブログ内容がオジサンの頭の中では結びつかなかった。
 
オジサンよりは一回りも年齢は若いのだが、その溢れんばかりの行動力と活動範囲には「同年代の男どもよ、しっかりせい!」と言いたくなってしまうほどのバイタリティーである。
 
*
 
昨日は、確実に春の到来を予感させる暖かだったが、今朝目覚めると外は雨。
 
時間の経過と共に激しさを増してきた。
 
こんな日には、ラテン歌手・八木啓代の歌を静かに聴いていたい。
 
最初は、昨年の東日本大震災の被災地の惨状を背景に歌った「満月の夕」
 
  
   
これは、お得意のスペイン語でのソロ。

  
  
  


タグ:八木啓代
posted by 定年オジサン at 12:51| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする