2013年06月13日

沖縄は忘れない、あの日の空を

「 土地に杭は打たれても、心には杭は打たれない。雨に打たれ、壁を乗り越える事で花は育まれ、人は成長を遂げていく。沖縄の闘いはこれからも続く。見守るだけではなく、共感してほしい。問題意識を共有してほしい。いつの日からか闘うことを止めてしまった私達が、気高い沖縄の人々の闘いから学ぶものは、決して少なくないはずだから。」
 
これは今年の1月から全国公開されている映画「ひまわり〜沖縄は忘れない、あの日の空を〜」を撮った及川善弘監督の言葉である。
 
一年前の5月中旬、地元のNPO法人の定期総会後の交流会で、オジサンより一回り以上も年上の女性会員から、1枚の「製作協力券」を断れずに買った。
 
その頃は、どんな映画になるかもまったく分からず、一緒にもらったパンフレットには、2012年1月〜6月は「キャスト決定・シナリオ決定稿」というスケジュールが記述されていた。
 
そして購入させられた製作協力券は机の引き出し奥に1年以上も眠っていた。
 
ある日、ツイッターに「ひまわりを観た。とても素晴らしかったから是非観てほしい」というメッセージが入っていた。
 
記憶が蘇り、机の引き出しから取り出された「ひまわり」の協力券は、「全国の映画館」ではなく、市民館や公民館の類の比較的安い費用の公共施設を借りた上映会での鑑賞券だった。
 
あらためて、パンフレットの呼びかけ文を読むと、こう書かれていた。

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      〜よびかけ〜
激しい勢いで子ども集団に米軍ジェット機が突込み、墜落炎上したあの日。傷ついた子どもと地域住民の痛みと悲しみは、平和な社会実現のための原点として、今、蘇ろうとしている。
憎しみと破壊の連鎖を繰り返す戦争。宮森小学校の悲劇、庶民の暮らしの破壊を二度とくり返してはならない。私たちは、この映画製作を支援する会として、安心できる時代を作るため次の一歩を踏み出す決意である。
     沖縄県民の会、加藤彰彦(沖縄大学学長)
◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇
 
夏日に近いある日の昼前に、市バス、電車を乗り継いで都心から外れたある公民館で「ひまわり」を鑑賞した。
 
平日の日中帯である。
 
ましてや、都心のプレイガイドとかネットで購入できる鑑賞券ではないので、若い人は皆無であり、むしろオジサンが若い方の仲間に入るくらいの善良な老老男女たちが観客だった。
 
映画の原作は、当初は都内在住の有名な脚本家に頼んだのだが、沖縄の人の心が表現できていないとの理由から、沖縄在住の文学者の大城貞俊さんが「石川・宮森ジェット機墜落事故証言集」を元に、事件当時の時代背景や沖縄独特の風俗や習慣、登場人物の感情を丁寧に書いた労作としてシナリオ準備稿を書いた、と上映前に企画・製作のゴーゴービジュアル企画の桂壮三郎代表取締役が裏話を話してくれた。
 
【作品解説】
あの悲惨な沖縄戦から生き延びた沖縄県民は、今度こそ戦争のない平和な時代をと一生懸命働いた。その矢先の1959年6月30日、突然、嘉手納基地から飛び立った米軍のジェット戦闘機が石川市(現うるま市)へ墜落し民家を押しつぶしながら、宮森小学校へ炎上しながら激突した。住民6名、学童11名の尊い命を一瞬に奪う大惨事となった。そこはまるで生き地獄の有様だった。沖縄戦で多くの命を失った県民にとって戦後の子ども達は正に沖縄の希望の星であった。遺族をはじめ県民の嘆き悲しみは尽きることはなく52年たった今日まで続いている。この映画はその遺族・被害者たちの証言を元に製作され、今や沖縄だけではない日本人全体が抱える基地・外交問題などに大きな疑問投げかける久々の社会派ドラマである。
 
【ストーリー】
激しい爆音とともに米軍のヘリが沖縄国際大学へ墜落した。事故現場を見た山城良太は、52年前の石川市(現うるま市)の空を思い出していた。良太は宮森小学生6年生で仲良しの、茂と豊と二年生の一平達と元気に遊び回っていた。新学期、担任の先生が転校生の宮城広子を紹介する。良太はほのかな恋心を抱いた。沖縄の青い空の下で、良太の家族も、一平の家族も、広子の家族も一生懸命に生きていた。1959年6月30日、突然、米軍のジェット戦闘機が墜落し炎上しながら宮森小学校へ激突した。悲鳴をあげながら逃げまどう子ども達、良太は広子を助けようとしたが、広子は大きな傷を負い息絶えていた。校庭には一平の変わり果てた姿があった。悲しむように花壇のひまわりが風に揺れていた。
それから53年目の2012年、年老いた良太(長塚京三)は妻を失い娘の世話を受けている。孫である大学生の琉一(須賀健太)はゼミ仲間と共に沖縄国際大学へリ墜落事件と宮森小ジェット戦闘機墜落事件をレポート活動を始めるが、頑なに事件の真相を語らない良太など、事件の傷跡は今も深く遺族の心を苦しめている。琉一はゼミ仲間と共に基地と平和を考えるピース・スカイコンサートを決意するが、恋人の加奈(能年玲奈)との不和など、コンサートを前に様々な問題が起きはじめる・・・
 

 
オジサンも普天間基地に関しては幾度となくつぶやいてきたが、その本質にはなかなか触れることはなかった。
 
「世界で最も危険な基地」という言葉と普天間基地周辺の写真を見て、そうなのか、という程度の認識しかなかった。
 
実際に基地周辺の人口を比較すると、米軍横田基地(東京都 周辺人口 100万人以上)や自衛隊入間基地(埼玉県 周辺人口 100万人以上)の方がジェット機が墜落した場合の被害は計り知れないので、「世界で最も危険な基地は普天間じゃない」ということを言う連中も出てくる。
 
しかし、横田基地や自衛隊入間基地から米軍機が実際の戦地には飛び立つことはないが、沖縄にある米軍基地からは日常的に戦闘機が飛び立つという現実があり、そんなジェット戦闘機が墜落事故を最初に起こしたのが、1959年6月30日の宮森事件であった。
 
1959年6月30日午前10時40分頃、米軍のジェット戦闘機が石川市6区5班・8班に墜落し、その衝撃で撥ね上がり、付近の家々を引きずるようにしながら北西の方向約150m先の宮森小学校のコンクリート校舎6年3組2階の庇(ひさし)に激突、Z機のエンジンの一部が教室の中に突っ込みました。撥ね上がって激突するまでに、6区5班・8班の家々とすぐ隣の2年生のトタン葺き校舎3教室は撒き散らされた大量のジェット燃料で激しく炎上しました。
この事故で18名(内後遺症により1人)の尊い命を奪い、多数の重軽傷者を出し、そして数千人の心に傷を負わした大惨事となりました。
 
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ジェット機の墜落コース 宮森小学校1959年6月頃の配置図
(以下文・図ともに全て石川・宮森630会編 「沖縄の空の下で」より転載)
    
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屋根の瓦が吹き飛ばされた4年1組とエンジンが飛び込んだ6年3組の教室 写真提供:キーストーンスタジオ
    
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1959年6月30日事故当日、米軍人で埋め尽くされ、住民を排除した。
すさまじく炸裂した6区5班の墜落現場 写真提供:伊波 宏氏    
    
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全焼した2年生の3教室 ここで6人(2年3組)の子どもが焼失した 写真提供:キーストーンスタジオ

20130613gazou08.jpg1959年6月30日に発生した、米軍ジェット戦闘機墜落事故は、40年目の1999年に事故原因(琉球朝日放送が入手した軍資料により)が明らかになりました。
それは防げば防げた人災だったのでは、と思われます。
事故原因を知った遺族や関係者の嘆き、悲しみ、怒りは益々激しくなるばかりでした。
どうして、その当時、米軍は事実を明らかにしなかったのか理解に苦しみます。
事故から50年余経ちましたが、米軍は、事故によって尊い命を奪われた十八名の御霊や多数の重軽傷者、さらに、家屋を失った関係者に対して、改めて今日的課題として謝罪をすべきだと思います。
そして、民間地域の上空を飛行しないという固い誓いをすべきであると思います。
戦争が終わって六十五年目です。
沖縄の空や海、そして陸から戦争の道具が横行するのは、もう終わりにしませんか。
(写真は1999年6月27日『沖縄タイムス』より)
 
映画のラストシーンは題名でもある「ひまわり」畑で出演者たちが幸せそうに集まるのだが、オジサンは20歳の時に観たソフィアローレン主演の「ひまわり」のラストシーンの感動の方が強かった。
    20130613himawari.jpg 

最後に、再び及川善弘監督の言葉で締めくくる。
 
 映画は特定の人間の営みや葛藤をドラマとして描く。その動き、表情、台詞から観客は次の展開を読み取り、登場人物に次第に感情移入していく。映画は元々、観客の想像力を多いに刺激する力を有している。この映画『ひまわり』は、宮森小や沖国大の事件に遭遇し、深い悲しみで心を閉ざした良太が主人公である。彼が、若者なりのアピローチで基地問題に取り組む孫・琉一と、その仲間たちと関わる中で、心の封印を解き、自分の言葉で平和への思いを語り始めるまでを描く。そんな良太の姿に自分を重ね、もしも自分がその場に居たら、という想像力が働けば−−沖縄の基地問題を本土に置き換え、もしも我が事であったら、という想像力が働けば−−。
沖縄は勿論、この国の隅々にまでこの映画を届け、一人でも多くの方々がこのドラマに自分自身の問題を見出し、戦争と平和についての想像力を深めていく契機ちなれば幸だ。
 
残念ながら、どこの上映場所も若い人が少なかったようである。
 
若い人に観てもらうことも大切だが、1945年に終戦となった戦争を知らず、その裏で行われていた沖縄での過酷な戦いの歴史も知らない、「歴史認識」が欠落し想像力も乏しい最近の政治屋たちに、是非見てもらいたい映画だ、とオジサンはつくづく思った。
 
posted by 定年オジサン at 09:00| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月23日

「わすれない ふくしま」

2004年7月から1年間限定で設定された新種の映画鑑賞割引料金に「夫婦50割引」というのがあった。
 
もちろん現在では定着しており夫婦でどちらかが50歳以上であると、2人2000円で鑑賞できるというシステムなのだが、オジサンも初めてオバサンと一緒にこのシステムを使った時は切符売り場に運転免許証を提示したことがあった。
 
確かに、平均余命が80歳を超える世の中では50歳と49歳の違いはほとんど見分けがつかない。
 
しかし、20歳と19歳とでは確認しなければならないのが「酒とタバコ」の販売の時の年齢確認なのだが、昨年の10月頃、コンビニでこの年齢確認を求められてブチ切れた梅沢富美男の話が話題になったが、オジサンも経験があり興味を持っていた。
 
これとは全く逆の体験は退職した年に「年齢確認」でつぶいた。
 

 
先日、履き慣れた靴の靴底の修理に恵比寿まで行った。
 
その帰りに、滅多に来られないので近くの「東京都写真美術館ホール」に向かった。
 
今月2日から東京地区限定ロードショー公開されていたヂキュメンタリー映画「わすれない ふくしま」を鑑賞するためだった。
 
20130323fukusima.jpg
 
■メディアの映画評
 ★朝日新聞
 ★東京新聞
 ★讀賣新聞
 ★産経新聞
 
チケット売り場で「シルバー1枚」と1000円札を差し出すと、カウンターの中の若い女性が極自然にチケットを渡してくれた。
 
3年前の夏には地元の散髪店で運転免許証を出してシルバー会員の仲間入りを果たしたのだが、今ではどこから見ても明らかなシルバーなのかと、少々複雑な気持ちになった。
 
しかし、平日の午後4時からの上映の映画を見に来る年齢層は限られる。
 
シルバー以外ならば、時間つぶしの外回りの営業マンとかいつも暇な学生くらいである。
 
開場と共に中に入ったが、確かにまばらな観客は見るからに、完璧なシルバーな人たちだった。
 
上映時にはなんとか観客が増えたが、それでも200名に満たない会場に男女5名づつのシルバーたちが、スクリーン中心に座っていた。 


 
映画の冒頭に、2011年3月11日の大津波の生々しい映像が飛び込んできた。
 
テレビニュースでは見られない、まさに山に逃げようとしている一人の男性が津波に飲み込まれる瞬間が映し出されていた。
 
風化し始めているオジサンの記憶に、当時の新たな記憶を思い出させてくれた。
  
さらに、福島第一原発の爆発に伴う放射能汚染による被害実態は悲惨であり、多くの餓死した乳牛の姿は衝撃的だった。
 
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“日本一美しい村”と呼ばれた飯館村は、原発事故後に放射線量が高くなり、4月下旬には全村避難の政府命令が出された。
大量の放射能汚染により、農家、酪農家には作付制限や出荷制限が行われ、風評被害も発生。
その中で、住民たちは収入の道が閉ざされるとともに、一家がバラバラになることを危惧する。
乳幼児のいる家庭は早くから避難していたものの、放射線自体が目に見えず、影響がわかりにくいものであることから、住民自身も混乱していた。
また、放射線量が村で最も高い長泥地区の住民の1人は、東京電力、政府の情報の遅れにより、避難できずに被曝させられたと怒りを露わにする。
高橋さん一家は、建設作業員の正夫さん、フィリピン人の妻ヴィセンタさんを中心に子どもたちとおばあちゃんを含めた6人家族。
岩部の集落で慎ましく暮らしていたが、5月末に川俣町へ避難することになった。
その直後、相馬市では原乳の出荷停止で事業が継続できなくなった酪農家が、遺書を残して首を吊った。
壁には“原発さえなければ”との殴り書き。原発から20キロ圏内の取材許可が下りた8月。
ある牛小屋では、取り残された牛が骨と皮だけになって餓死していた。
しかし、原発から北西14キロの浪江町の牧場では、畜産農家の吉沢さんが“意地のようなもの”と語って300頭の牛の飼育を継続
その後、東京電力に抗議した吉沢さんは、交渉を繰り返した結果、5億円の賠償金を受け取った。
2012年6月、高橋さん一家の元を再び訪れると、ヴィセンタさんは仕事を辞め、夫の正夫さんは職場で事故に遭い、半身不随で入院していた。
全村避難からおよそ1年が経った飯館村では除染が開始。
最も放射線量が高かった長泥地区はバリケードで封鎖され、5年間帰ることができない。
放射線量はほぼ変わらず、除染作業をする作業員は防護服に身を包む。そして、7月11日に大飯原発が再稼働した。
 
   ◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇=◇
 
ドキュメンタリーの対象一家は高橋家と自殺した菅野さんの遺族たちと東電に単独で闘いを挑んだ吉沢さん。
 
この地方は日本各地でも見られるように農家の嫁不足からフィリッピン人妻が多いらしい。
 
とりわけ若くして夫に先立たれて2人の男の子を育てるフィリッピン人のバネッサさんが、夫の写真が載っているパスポートを見せながら悲しみを吐露する様は、観客の悲しみを誘いながらも、その怒りの矛先を見つめてしまう。
 
そのバネッタさんは、この撮影を終えた後に「『原発さえなければ』自死酪農家の遺族、東電提訴へ」という行動をおこした。
 
オジサンはこの映画を見て、最後に高橋さんの2人の娘と小学生になった長男の笑顔にわずかながら救われたが、この子供たちの将来は決して平坦ではないと思うと同時に、津波による被害は徐々に復興しつつあるが、放射能汚染による被害は今後も長期間にわたって続き、「わすれない ふくしま」、「わすれてはいけない ふくしま」という気持ちで映画館を後にした。
 

posted by 定年オジサン at 11:00| 神奈川 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月24日

クラウドファンディングに参加

最近国内外で暗躍している「ハゲタカファンド」とは、不良債権に群がり、儲けようとする投資会社のことを指す。
 
2010年1月19日に、負債総額が2兆3221億円で事業会社としては戦後最大の経営破綻となった日本航空が東京地裁に会社更生法の適用を申請し、官民ファンドの企業再生支援機構が支援を決定した。
 
そして、支援機構は3500億円の資本注入を日航にするが、2012年9月19日に再上場した際に取得した1億7500万株の日航株をすべて売り出し、証券会社に支払う手数料などを除いて約6483億円を得た。
 
僅か2年余りで3000億円近くも稼ぐとは、まさに現代版「ハゲタカファンド」と言うにふさわしい。
 
ハゲタカとは全く真逆で穏健な「市民ファンド」は、市民からの寄付を中心に、市民活動に助成をする、市民が運営する基金と呼ばれている。
 
オジサンが監事をやっている地元のNPO組織も、市民から寄付受け入れ、市民活動団体に寄付をして、寄付された団体からの活動報告を寄付者に公開するという「サポート基金」を立ち上げている。
 
これは、寄附金特別控除(税額控除)制度を活用して寄付者を募っている。
 
助成する活動には「持続応援型」と「プロジェクト型」の2種類がある。
 
先日、ある人の寄稿文を読んで、「READYFOR?」という、プロジェクトに必要な資金を募ることで、プロジェクトを後押ししてくれる支援者を集める日本初のクラウドファンディングの存在を知った。
 
現在、サイト上には24のプロジェクトが資金募集をしている。
 
その中に「世界最先端の映画を、日本に届けるプロジェクト」がスポンサー応募中である。
 
このプロジェクトについては以下のように紹介されていた。
 
世界最先端の映画を、日本に届けたい。
価値の高い映画を見ることで、デジタルの波に負けない強さを手にしたい。
初めまして、大寺眞輔と申します。皆さんは、普段どれくらい映画をご覧になりますか?映画館にどのような思い出がありますか?
そして現在、映画が大きな変革の波にさらされているのをご存じですか?
いま、映画界は変わりつつあります。トップの動画をご覧ください。このメッセージ動画は、私たちの理念と活動目的に賛同してくれた映画監督の冨永昌敬(*1)に制作していただいたものです。
映画界を襲う変革の波とは何か。それは、アナログからデジタルへ移行したこと、それに伴い個人映画館が閉館に追い込まれていることです。
そんな変革の波に負けたくない。現状を打破したい――。私たちはそういう気持ちから、DotDashという組織を立ち上げました。
このプロジェクトは、世界から価値の高い映画を選んで日本に輸入し、多くの観客の目に触れるよう上映活動を行うものです。そのDotDashの活動第一弾として、ポルトガルの映画監督ジョアン・ペドロ・ロドリゲス(*2)の特集上映をします。
幸い、上映を行う会場や上映日時などは、ほぼ決まりました。
しかし、会場費や上映会のチラシ、パンフレット制作など、今回の上映会開催に必要となる活動資金が足りません。
日本に質の高い映画を届けるため、私たちのお手伝いをしていただけませんか。
映画を襲う変革の波
2012年、昔から個性的な映画を上映し、日本の映画文化を支えてきた銀座シネパトスや渋谷シアターNといった映画館の閉館が次々と決定しました。
デジタル設備を新たに導入する資金のない個人映画館が、今年から来年にかけて閉館されようとしています。とりわけ、芸術作品を上映してきたミニシアターは壊滅の危機的状況にあります。
上映される劇場が減るということは、公開本数も減るということです。既に減少しつつあった洋画にとっては、さらに厳しい時代を意味します。作品の選択肢や文化的な幅も狭まるばかりです。しかし、ハリウッドの娯楽作品だけが映画ではないはずなのです。
このままでは、日本から新しい映画・新しい文化の生まれる重要な素地が奪われてしまいます。
 
DotDashについて
そこで私たちは、世界から本当に価値の高い映画を選んで日本に輸入し、多くの観客の目に触れる上映活動をしようと考え、DotDashという組織を立ち上げました。その活動第一弾として、ポルトガルの映画監督ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの特集上映を企画しました。
ロドリゲス監督は、フランスの権威ある映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」で年間ベストテンに選ばれ、カンヌ映画祭批評家週間でも審査員を務めた経歴のある、ヨーロッパでは非常に評価の高い監督です。
その作品は、しばしば同性愛やゲイカルチャーを主題に選び、ポップでインパクトの強いスタイルに特徴があります。まだ日本には全く紹介されたことがありませんが、決してマニア向けにはとどまらない華のある作品ばかりなのです。
一点だけ、お願いがあります。私たちが上映しようとしている映画は、世界最先端に立つ芸術作品です。したがって、それは万人が楽しめるものではない場合もあります。その強烈な存在感や激しい描写に対しては、時に行き過ぎだと感じる人がいるかも知れません。しかし、文化や芸術は大胆であってほしいと私たちは願っています。
周りの目を気にして怯えながら作られたような作品が、心の底から私たちを感動させることはないからです。
恐れを知らない大胆な芸術こそが、日本から新しい映画・新しい文化の生まれる重要な素地を生み出す――私たちはそう考えています。そうした作品を日本に届けたい。そして、皆さんにぜひ観てほしいと思います。
 
上映会について
今回の上映会は、アテネフランセ文化センターなど上映館からの支援をいただき、来年三月下旬に日時が決定しました。地方での上映も、現在交渉中です。一部の作品は、衛星チャンネルの有料テレビを通じて、多くの方にも見ていただけるよう交渉中です。
さらに、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督本人とも緊密に連絡を取り、さまざまな面でご協力いただいています。ロドリゲス監督は、熱い心と明敏な知性が同居した、本当に素晴らしい文化人です。上映会開催時には、このロドリゲス監督に来日していただく約束もしています。そして、彼の来日をサポートするため、ポルトガル大使館文化部からの援助もいただけることになりました。
しかしながら、上映会の会場費、そしてチラシやパンフレット制作など、今回の上映会開催に必要となる具体的な活動資金がまだまだ圧倒的に不足している現状です。
こうした部分で、みなさんからの援助をいただきたいと考えています。
今回のジョアン・ペドロ・ロドリゲス特集上映が実現し、企画が成功した暁には、私たちDotDashは、さらに多くの企画にチャレンジする用意があります。そしてその活動を通じ、日本の映画界をより豊かなものにして行きたいと考えています。
日本の映画文化のため、映画芸術の存続と発展のため、是非、皆さんのお力をお貸し下さい。温かいご支援を、どうぞよろしくお願いいたします。
 
*上映会日程
日時:  2013年3月23日〜30日
場所:  アテネフランセ文化センター 他
      (上映会場は東京の他、神奈川や地方上映も交渉中です。)
(*1)冨永昌敬 オダギリジョー主演『パビリオン山椒魚』や浅野忠信主演『乱暴と待機』などで有名な新世代を代表する映画作家。(*2)ジョアン・ペドロ・ロドリゲス ポルトガルの映画監督。ヴェネチア国際映画祭やカンヌ国際映画祭のコンペに出品し、世界的に高く評価されている。代表作『オデット』『男の死』など。
 
オジサンの小学生の頃には、鉄道の駅の近くには町の個人映画館がたいてい存在していた。
 
そして休みの時には親に連れられてよく見に行ったものであった。
 
身近な、チョット贅沢な娯楽でもあったことを今でも覚えている。
 
町の商店街が次々と量販店や全国的なチェーン店の進出により廃業に追い込まれていくにつれて、いつのまにか個人映画館も姿を消してしまった。
 
そして、1990年代に現れたのがシネコンと呼ばれる複合映画館で、その規模から街中ではなく広い駐車場を完備した郊外に作られた。 

こうして気軽に映画を見る機会が徐々に無くなってしまった。
 
オジサンは早速上記の「DotDash」に貧者の一灯を送り数少ないスポンサーになった。
 
オジサンの僅かな支援金でようやく280000円が集まった。
 
あと7万円で目標金額に到達し、このプロジェクトも陽の目を見ることができる。
 
「恐れを知らない大胆な芸術こそが、日本から新しい映画・新しい文化の生まれる重要な素地を生み出す」
 
・・・こんな若者の試みをなんとか実現させてあげたい、とオジサンは思っている。
 
posted by 定年オジサン at 12:18| 神奈川 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月19日

「国家への怒り」の炎がひとつ消えた

「暴力や政治、エロスをテーマとする作品を量産」した監督というレッテルをいつも貼られていた若松孝二監督。
 
先週の金曜日のニュースでは交通事故に遭って入院したという報道内容だったので、あまり気にもとめていなかった。
 
ところが、一昨日亡くなったと訃報が伝わったが、事故当時から既に意識不明の状態だったらしい。
 
1週間前の12日午後10時10分ごろ、新宿区内藤町の都道を横断しようとしたところタクシーにはねられ、重傷を負って入院。事故の一報では命に別条はないとされていたが、若松プロによると「事故直後に病院に搬送されてから、意識不明の状態が続いておりました」といい、予断を許さない状況が続いていたことがうかがえる。若松監督が亡くなったのは17日の23時5分で、若松プロでは「交通事故によって逝去いたしました」と報告している。
 
21歳の時、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、半年間、拘置所に拘禁され執行猶予付の判決を受けている。
 
27歳にピンク映画『甘い罠』で映画監督としてデビューし、低予算ながらもピンク映画としては異例の集客力をみせた若松孝二は「ピンク映画の黒澤明」などと形容されヒット作を量産した。
 
黒澤明監督の映画は多く観たが、以下の作品群を見れば、当時高校生だったオジサンにとっては、上映館の前を通るだけでも勇気がいるような題名だった。
 
甘い罠(1963年)
壁の中の秘事(1965年)
胎児が密猟する時(1966年)
犯された白衣(1967年)
腹貸し女(1968年)
復讐鬼(1968年)
狂走情死考(1969年)
処女ゲバゲバ(1969年)
ゆけゆけ二度目の処女(1969年)
現代好色伝 テロルの季節(1969年)
やわ肌無宿 男殺し女殺し・裸の銃弾 (1969年)
性賊 セックスジャック(1970年)
新宿マッド(1970年)
 
しかし、1971年の「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」辺りから、若松孝二の映画作りの原点である“怒り”が頭を持ち上げて、反体制の視点から描く手法の映画が多くなってきた。
 
今日の朝刊ではこんな特集が組まれていた。
 
<作品の根底、国家への怒り 若松孝二さん死去>
  2012年10月19日 東京新聞
17日に死去した映画監督の若松孝二さんは、「甘い罠(わな)」(1963年)など60年代から70年代のピンク映画をはじめ、エロスや暴力を扱った作品を発表してきたが、根底にあるのは国家への怒り。「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」(2008年)など、既存の体制や価値観に抵抗する人間を描き、近年は欧州などで若松作品を再評価する動きも出ていた。 (小田克也)
 若松監督は1965年、団地の主婦の性を描いた「壁の中の秘事(ひめごと)」をベルリン国際映画祭に出品。日本の新聞から「国辱映画」と酷評され、この騒動をきっかけに若松プロダクションを設立。76年には大島渚監督の「愛のコリーダ」も製作している。 60年代から70年代、全共闘世代を中心に、その先鋭的な作風が支持された。80年代以降は、内田裕也主演の「水のないプール」(82年)など一般映画へとかじを切っていく。
      ■
 左翼でも右翼でもなく、その作品群からは巨大な国家と対峙(たいじ)する個としての人間が浮かび上がる。例えば「実録・連合赤軍〜」と「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」(2012年)。主張は正反対だが、いずれも国を変えようと情熱を傾ける若者が主役だ。
 高校を中退し、職を転々とした。工場の従業員が転落死しても補償されない現実などに触れ、憤りを覚えた。それが人生の原点。監督を志したのは、警察に逮捕されたときの扱われ方に怒り、映画の中でなら警察と対決できると考えたからという。
 1963年、ピンク映画「甘い罠」で監督デビューするが、当時は松竹など大手の撮影所がしっかりしている上、日活ロマンポルノが世間に定着する以前のことで、「ピンクの巨匠」は孤立を余儀なくされた。映画評論家の村山匡一郎さんは「商業映画のメーンストリームから離れたところにいたため異端視され、反体制の意識が助長された面もあるのでは」とみる。
 製作、配給、宣伝と外部委託と分業化が進む映画界にあって若松プロは、配給宣伝を自社で行う。監督自ら舞台あいさつに立ち、「次も撮りたいので」と、役者のサイン入りパンフレットを売り込んだりする。「映画界の興行システムに対抗し、自力で切り開こうとする意識がうかがえた」と村山さん。ミニシアター「シネマスコーレ」(名古屋市)の運営に携わってきたのも、自主映画の発表の場を大事にしたいとの思いからだろう。
      ■
 近年は「実録・連合赤軍〜」が評判に。また、戦争で人生を狂わされた夫婦を描く「キャタピラー」(2010年)に主演した寺島しのぶは、ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞した。
 今年は「海燕ホテル・ブルー」と「11・25自決の日〜」を公開。70代後半で年間2本は日本の監督として異例の多さで、勢いを取り戻した感があった。
 一方、海外でも、フランスのアントワーヌ・バロー監督が若松監督に迫る短編ドキュメンタリー「火の家」(10年の作品、11月4日から横浜市のシネマ・ジャック&ベティで上映)を撮るなど再評価の動きが広まりつつあった。
 「映画を武器に思いを伝えていく」。「千年の愉楽」を出品した九月のベネチア国際映画祭で、こう意気込みを見せていた若松監督。その直後の惜しまれる死となった。
 
今時、「国を変えようと情熱を傾ける若者」がいたら、「時代遅れ」などと揶揄されるかもしれない。
 
しかし60年安保闘争の頃は、純粋に国家観を熱く語る若者は多かった。
 
その後、安保闘争に敗れ、10年後の70年安保改定時期には、大学の構内に入ってきた機動隊に対して、オジサンたちは精々、後ろのほうから石を投げる程度の抵抗しかできなかった。
 
そんな挫折感の学生たちを見て育ってきた最近の50代前後の政治家は、もはや国家を語ることはしない。
 
国家を語るどころか、国民の税金を食い物にすることしか考えない輩だらけになってしまった。
 
東日本大震災の復興予算の「流用」問題を審議した18日の参院決算委員会のニュースを見て、つくづくこの政治家連中は一体誰のために何のために、選挙で選ばれ国会に来たのだろうと、呆れてしまった。
 
<“仕分けコンビ”、復興予算で開き直り連発 自公に責任転嫁>
  2012.10.18 産経新聞
東日本大震災の復興予算の「流用」問題を審議した18日の参院決算委員会で、かつての「仕分けコンビ」が開き直りとも取れる発言を連発した。平成21年の政権交代直後の「事業仕分け」では、歯切れ良く予算のムダ削減を訴えていた枝野幸男経済産業相と蓮舫元行政刷新担当相。3年余りの与党暮らしの末、「言い訳」を余儀なくされる場面が目立った。
 「あのー、ミソもクソも一緒にした議論はやめていただきたい」
 普段は理路整然と答弁することが多い枝野氏の冷静さを欠いた答弁に、委員会室は騒然となった。自民党の森雅子氏が、流用問題で地元・福島の企業向け立地補助金が不足していることを厳しく指摘したときのことだ。
 山本順三委員長(自民)はすかさず、「言葉は慎重に選んでください」と注意したが、枝野氏は「間違ったことを言っているとは思わない」と収まらず、「被災地以外に予算が使われていることは、理由も原因も全然別の話だ」とまくし立てた。自民、公明両党にも責任があるといわんばかりだった。
枝野氏は自ら発した「ミソもクソも」という発言だけは、「あまり上品でなかったので、おわびして撤回する」と謝罪したが、復興予算に計上された立地補助金の大部分が被災地以外の企業を対象としているのは事実。激高したことで、かえって所管する「省益」を堅持しようという姿勢を印象づける結果となった。
 民主党委員として質問の先陣を切った蓮舫氏は、より露骨な形で自公両党に流用問題の責任を転嫁した。
 「一言言わせていただきたい。もともと内閣が出した復興基本法案は対象を被災地に限定していたが、自民党さん、公明党さんからの建設的な意見も踏まえ、対象は日本全国になった」
 蓮舫氏は、被災地以外の全国防災事業に復興予算が充てられた経緯に関し、こう強調した。
 初の本格的復旧・復興予算となった23年度第3次補正予算の編成をめぐる自民党の行状について「さらに7・1兆円上積みしろといわれた」「立地補助金が足りないから5千億円上乗せしろと指摘された」−などと“暴露”したが、逆に政権与党としての責任を棚上しようとする姿勢が浮き彫りに。
 そこには、かつての「仕分けの女王」の面影はなかった。(桑原雄尚)
 
オジサンはこの場面を見ていて、思わず「与野党のどっちがミソでどっちがクソなのか」とつぶやいてしまった。
 
まさに国民からすればいずれの党も「五十歩百歩」、「目くそ鼻くそを笑う」の域を出ていない。 
 
その後のニュースでは、こんな被災地の人たちの声を紹介していた。
 
■仮設住宅団地の自治会役員の男性(69)は「自宅を流され、茶わん一つも残らなかった。なんとか生活を取り戻したいと思っているのに、役人は復興を名目に好き勝手にやっている。今さら平野達男復興相が『復興予算は正しく使います』などと言うこと自体がおかしいよ」と憤る。
 
■高台の病院から海を見ていた阿部みつこさん(62)は、津波で自宅を奪われ、仮設住宅で家族5人と暮らす。「私たちが望んでいるのは、自宅の再建と仕事。もっと早く復興を進めてほしいのに、なんで関係ないところに予算が付くのか」 
 
まさに国家に対する怒りの持って行き場までなくなり、途方に暮れている被災地の住民たち。
 
国家権力に対して、映画という武器で「国家への怒り」を表現していた若松孝二監督の「早すぎる死」をあらためてオジサンは惜しんでいる。
 
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2012年02月28日

アスリートとアーティスト

昨日、昼食を摂りながらワイドショーを見ていて、気になるニュースが印象に残った。
 
それは日曜日に行われた東京マラソンの結果。
 
日本人でトップのタイムで2位に入った藤原新選手のレース後の談話。
 
「賞金に目がくらんで必死だった」
 
<【東京マラソン】「賞金に目がくらんで必死だった」 破顔の無収入ランナー、藤原新>
  2012.2.26 産経新聞
実業団に所属しない異色ランナー2人の明暗が分かれた。26日の東京マラソンで、日本選手トップの2位となりロンドン五輪代表入りを確実にした藤原新選手(30)は無収入。レース後に「賞金に目がくらんで必死だった」と冗談を交えて笑顔を浮かべた。
 藤原選手は2年前、駅伝中心の練習に疑問を感じJR東日本を退社。健康用品の製造・販売会社と3年契約を結んだが、同社の経営難から給与が支払われなくなり、昨年秋、契約解除に。足の故障も加わった。「収入もなく、どうしようかという状況だった」が、妻と1歳の長女を富山県に残し、単身で都内での練習を続けてきた。
 「(自分に)値段が付けば」とハングリー精神を前面に出して臨んだ東京マラソン。2位の賞金400万円を獲得するとともに、五輪切符もほぼ手中に。レース後の記者会見で「五輪のない競技人生はあり得ない」と力を込めた。
 
東京マラソンが2009年から国内で初の賞金レースになったということをオジサンは初めて知った。
 
男女とも優勝800万円、2位400万円、3位200万円まではテレビでも紹介していたが、さらに4位100万円、5位75万円、6位50万円、7位40万円、8位30万円、9位20万円、10位10万円と細かに設定されている。
 
10位の賞金額から見れば、一人前の走者を抜けば6位まで10万円づつ賞金が増える。
 
そして4位からは賞金は順次倍になる。
 
現在「無職」と発表されていた藤原選手は、ラストスパート時点で3位だったのを2秒差で2位に入り、賞金が倍の400万円になった。
 
日本記録を出せばタイムボーナスとして500万円が加わるという、大変闘争心をかき立てるマラソンレースなのだ。
 
近代五輪はいつの間にか商業五輪となり、出場選手はほとんどがプロ化している。
 
表には見えない支援企業のロゴを背負った選手だらけの中で、日本の実業団に属していない「しがらみの無い」藤原選手がこのまま五輪代表になれば画期的なことだろうと思った。
 
藤原新が画期的なアスリートになりそうな期待が高まったが、昨晩のニュースではフランス映画の「アーティスト」が時計の針を戻すかのような異色の「白黒サイレント」でアカデミー賞を受賞した。 
 
<転換期の米アカデミー賞 仏「アーティスト」作品賞 映画への愛を評価>
  2012年2月28日 東京新聞
第84回米アカデミー賞に26日(日本時間27日)選ばれたフランス映画「アーティスト」は、今どき異色の白黒サイレント。銀幕のスターが恋人に支えられ、復活を遂げるラブストーリーだ。今回の選考結果を映画評論家の矢崎由紀子さんは「映画への愛情が感じられるのが良い作品という、アカデミーの意思を感じる」と語っている。 (小田克也)
  
 作品の舞台は1927年、黄金期のハリウッド。サイレント映画の大スター、バレンティン(ジャン・デュジャルダン)は新人女優ペピー(ベレニス・ベジョ)に恋心を抱く。
 サイレントからトーキーへの移行期。ペピーはスターへの階段を駆け上がる。だがバレンティンは、自分は芸術家(アーティスト)だと、サイレントに固執し、落ちぶれていく。ペピーはそんな彼にある提案をする…。
 絶望したバレンティンが、自作のフィルムに火を放つ場面が印象的だ。むろん映画へのオマージュで、「限りない映画愛」の裏返し。微妙な白黒の陰影、時折入る字幕…。映像やせりふのあり方も考えさせられる。監督はミシェル・アザナビシウス。
     ■
 「映画愛」がアカデミーから評価されたのは、時代の変化も無関係ではあるまい。コダックの経営破綻が示すように、フィルムからデジタルへの転換が進み、3D上映が急増。コンピューターグラフィックス(CG)も進歩し、生身の俳優に取って代わる勢いだ。
 映画を取り巻く環境が変わる中、映画とは何か、再定義を迫られているといえる。そうした状況でアカデミーは、「映画への愛情が感じられるのが良い作品」と、メッセージを発したといえそうだ。
 「映画を愛する気持ちがあれば、映画があなたを救ってくれる。『アーティスト』は、そんな映画愛が根底に流れている」と矢崎さん。
 スティーブン・スピルバーグ監督の「タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密」が、アカデミー賞のアニメ部門にノミネートされず、周囲を驚かせた。俳優の演技を撮影してCG化する「モーション・キャプチャー」を最終的には実写に近いと見なしたようで、矢崎さんはここにもアカデミーの再定義の意思を感じるという。
     ■
 今回は、アカデミー会員が純粋に気に入った作品を選んだ、という言い方もできる。矢崎さんは「作品賞はじめ、デュジャルダンが主演男優賞を、アザナビシウスが監督賞を受賞し、『アーティスト』が主要賞を総なめにしたのは意外。二人ともハリウッド映画に貢献してきたわけではない。その意味で会員は、しがらみや貢献度ではなく、いいと思ったものに投票した。昨年、感じた傾向が一段とはっきりした。歓迎すべき方向だ」と話す。
 純粋にいいと選んだのが、映画愛を感じさせるシンプルな「アーティスト」。4月7日、シネスイッチ銀座など全国で公開される。
 
アカデミー賞の選考は1929年に設立されたアメリカの映画産業従事者の団体、映画芸術科学アカデミー(AMPAS)の会員の無記名投票が行われ、所定の賞を授与される。
 
選出のための投票権を持つ映画芸術科学アカデミー会員は、大部分がハリウッドの業界関係者による編成であり、新聞記者や映画評論家など「公平な立場で判断できる分野の会員が少ない」のが特徴で、もともと授賞式は「映画芸術科学アカデミー」の夕食会の一環として始まった内輪の集まり程度だったらしい。
(Wikipediaより)
 
こんなアカデミーに真っ向から挑戦するかのようなフランス人監督のフランス映画が、しかもハリウッド映画に貢献したわけではない俳優を使い、現在のハリウッド映画制作手法と真逆の「白黒でサイレント」映画が受賞したということは、映画の原点に戻れというメッセージが込められているのではないかと思う。
 
押し付け的な「絆」が横行しているこの国でも、企業のしがらみのないマラソン選手が注目を浴びた。
 
ハングリー精神旺盛なアスリートと、「アカデミー会員が純粋に気に入った作品」になった「アーティスト」。
 
無理に結びつける気はないが、最近失われていたものを思い出すような2つのニュースだったと、オジサンは思った。

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2011年08月21日

男の寿命

例年と大きく異なり、今年の「小笠原高気圧」は勢力が弱く、日本列島を覆う期間が短かったようである。
 
そのため天候は不安定で、梅雨の後半から雨があまり降らずに暑く、梅雨明け後には猛暑になったが、台風が通過した7月20日頃から2週間ほどは低温傾向が続いた。
 
そのあとまた猛暑がぶり返したのだが、この2度目の猛暑が多くの熱中症による死者を出した。
 
35℃〜38℃などという気温が関東各地で記録され、もううんざり、と思っていたら昨日、東京など関東地方の気温が急降下した。
 
そして今日の日曜日は、オジサンが目覚めた時の室温は23℃だった。
 
この1週間で温度差は10℃もあった。
 
寒暖の差が激しい季節は昔から老人や病気持ちの人の寿命が短くなると、なんかの本で読んだことがある。
 
そして今年も既に多くの有名人が亡くなった。
 
若くして命を落とした人もいるが、結局は亡くなった歳がその人の寿命ということである。
 
平均寿命なんてものは、あくまでも統計上の数値であり、誰でもがその年齢まで生きられるという保証ではない。
 
保証はされないが、凡人としては平均寿命前後までは少なくとも自分は生きることができるのでは、と漠然とした思いを持っている。
 
WHOの平均寿命ランキング・男女国別順位(2011年版)によれば、世界の平均寿命は、男性が66歳、女性が71歳、男女平均が68歳。
 
この統計はWHO加盟国193カ国を対象としている2009年時点のものであるのだが、日本人の平均寿命は、男性が80歳、女性が86歳、男女平均の83歳は世界でトップ。
 
いつの間にか日本人男性の平均寿命が80歳になっていて、これは世界2位である。
 
ところが最近、80歳未満の男性の死亡が目を引く。
 
*
 
2011年7月19日午前9時35分、享年71歳にて永眠した役者がいた。

役者としては余りにも早すぎる短い命だった。
 
2008年に出演したテレビドラマ「おシャシャのシャン!」の収録で長野県下伊那郡大鹿村に初めて訪れ、村人の思いに触れたことがきっかけで大鹿歌舞伎をテーマに映画化を発案した原田芳雄。
 
癌に侵されながら周囲には病を隠しながら最後の力を振り絞って演じた「大鹿村騒動記」。
 
全国公開された1ヵ月後にオジサンはオバサンと銀座の映画館に足を運んだ。
 
この映画は公開直後は余り人気がなかったが、公開後3日目に主演の原田芳雄が亡くなり遺作となって人気が高まった。
 
ところでシリアスな堅いテーマの映画は、オバサンには不評である。
 
一緒に行く場合は、特に思想性のない「娯楽」に徹した内容の映画を見ることが多い。
 
今回見た「大鹿村騒動記」は、キャスト陣がベテラン、名脇役といった俳優が多かった。
 
 ■原田芳雄(食堂「ディア・イーター」店主:景清)
 ■大楠道代(善の妻)
 ■岸部一徳(善の幼なじみ)
 ■佐藤浩市(バス運転手)
 ■松たか子(村役場総務課) -
 ■石橋蓮司(土木業:畠山重忠)
 ■小倉一郎(白菜農家:三保谷四郎国俊)
 ■でんでん(食料品店店主:源頼朝)
 ■加藤虎ノ介(村役場職員:大鹿軍内)
 ■小野武彦(旅館主人)
 ■三國連太郎(歌舞伎保存会会長、貴子の父)
 
中高年の観客なら、これだけの役者が揃えば内容は「保証付き」である。
 
特に波乱万丈の内容ではなくごく自然に話が進む、ほのぼのとした映画である。
 
監督の阪本順治は硬派なイメージをひた隠しして終始笑いの絶えない軽妙な大人のコメディ風に仕上げていた。
 
しかしあえてベテラン荒井晴彦を指名した脚本だけあってそこは一筋縄ではいかない仕掛けが随所に散りばめられていた。
 
背景には「現代の農村の若者離れ」、「過疎と外国人就労者」、行く末の「不透明な公共事業誘致」、誰しも避けられない「老化の問題」、「性同一性障害」、果ては「シベリア抑留」の話題まで、本来は重いテーマなのだが、それぞれの役者に何気なく演じさせる。
 
娯楽性だけを期待していない観客に対するさやかながらのサービス精神発揮といったところだろうか。
 
物語は300年の伝統の村歌舞伎の公演でクライマックスを迎えるわけなのだが、歌舞伎に全く興味がない人には、最後の長い歌舞伎のシーンは退屈だったかもしれない。
 
「なんだか『歌舞伎を好きな人が、内輪の中で作った』というような不親切さでした。」とういう若者のピントはずれな映画評もネット上のは散見していたが、オジサンとオバサンは昨年新橋演舞場で歌舞伎鑑賞デビューをしていたので、すんなりと最後まで楽しめた作品であった。
 
いずれにしても、主演の原田芳雄も監督の阪本順治も、これが一緒に撮る最後の作品という思いを込めた内容だったのだろう、とオジサンは思った。
posted by 定年オジサン at 13:44| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月13日

大義って?

オジサンは以前「情報漏洩」というタイトルで以下のような内容をつぶやいた。
 

定年後、日中帯に家にいる時間が長くなると、今まで見る機会がなかったテレビ番組の再放送を見るようになる。
最近は、3週連続で2年前までフジテレビで深夜放送されていた「SP」シリーズの最終回(2008年1月26日放送)を一気に見てしまった。
これまでも何度か見ていたが、いつも若いSPたちが警護する対象者の情報がなぜだかテロたちに必ず漏れて危険な状況になる。
そのような困難な状況を打破し彼らSPが要人を守るというのがドラマの設定なのだろうが、当然、内部の人間が情報を漏らしていたのだろうと一般の視聴者は推測する。
この最終回の再放送は、ついにその情報漏洩している内部の人間が明らかになり、最後は何者かに「自殺」を装って殺されるという内容だった。
ドラマでは、SPたちが所属する警視庁・警備部・警護課のトップキャリアの理事官という立場の人間が情報漏洩者であった。

先週の暖かな日の午後、都心に出て夜の会合まで時間が十分あったので、日比谷のスカラ座に入った。
 
窓口で初めて入場券を「シルバー料金」で払い、全席指定席なので空き席を聞いたら、
 
「十分な席をご用意してあります」
 
といわれ、比較的前方の通路の座席を指定した。
 
平日の12時過ぎ、オジサンが館内に入ったら誰もいなかった。
 
一瞬、「間違えたか?」と不安に思ったが入場券に記されている指定座席に座って簡易昼食をとった。
 
その後、ざわざわとした声がして観客が入ってきた。
 
周囲を見渡すと、観客は皆な中央に集まっていた。

オジサンは指定席を無視して、スクリーン正面の一番見やすい座席に移動した。
 
定員600席以上もある館内に僅か10名前後の観客で寒々と感じられた。
 
長い予告編を20分近く見せられてようやく本編が始まった。
 
そのタイトルが劇場版「SP野望篇」。
 
これは、テレビ放映された最終回からの続きになっている。
 
大まかなあらすじはこんなもんである。
警視庁警備部警護課第四係機動警護班隊員・井上薫(岡田准一)は、自殺した理事官に対して「仕方がないだろ。大義のためだ」と係長・尾形総一郎(堤真一)が発した言葉に、猜疑心と困惑の色を浮かべ対峙する。その出来事から1ヶ月。東京の街は、何事もなかったかのように毎日が過ぎ、どこを見渡しても平和な日本の姿があった。だが、そのウラでは、日本という国家のシステムを根底から揺るがすようなテロが企てられており、全ての脅威は、六本木の街から始まろうとしていた……。公安の目をかいくぐり、不穏な動きを見せる国家の要職を担うキャリア官僚たち。その中には、与党幹事長・伊達國雄(香川照之)の姿も含まれていた。相次ぐ脅威への過剰反応(シンクロ)に苛まれる井上。さらにテロリストの魔の手は、笹本絵里(真木よう子)、山本隆文(松尾諭)、石田光男(神尾佑)ら第四課のメンバーにも襲い掛かってくる……。

テレビのシリーズ版を見ていない人にとっては困難な内容ともいえる映画。
 
逆にいえば、テレビ放映から見ている人をターゲットに作られた作品でもある。
 
人気テレビドラマの映画化という現象は、1997年1月 - 3月にフジテレビ系で放映された織田裕二主演の連続テレビドラマ『踊る大捜査線』が元祖らしい。
 
その後シリーズ化されテレビドラマ・映画・舞台で展開されていた。
 
テレビ放映の劇場版は、放映中のテレビ番組の中で執拗な「宣伝」を繰り返すため、テレビ人間たちを劇場に引き寄せる効果は絶大である。
 
映画館のスクリーンにいつも見ている俳優たちが出ているので、違和感無く引き込まれるのだろう。
 
「映画俳優が見られる」とワクワクしして映画館に出かけたオジサンの小さいとき隔世の感がある。
 
さて、話はSPに戻るが、題名の「野望」とは「大義」のことらしい。
 
この映画を観たファンの声がネット上に多く見られるが、「大義」が「大儀」になっているものも多く「骨が折れる」思い。
 
権力側内部にいる若き官僚の革命的テロは昔の「2.26事件」の青年将校たちを彷彿させるが、この映画での権力のトップは「麻田総理大臣」という、自民党末期の首相「福田康夫」と「麻生太郎」の姓の頭文字をつなぎ合わせたかのような人物である。
 
この映画ではかっての青年将校のような若き官僚が登場し、次回作の「革命篇」で決着が付くというストーリーらしい。 
 
はたして1936年(昭和)の時のような顛末になるのか予断(?)は許されない。
 
「大義」のために殺されるような政治家は残念ながら現状では日本には見当たらない。
 
与野党ともども「仁義無き」権力闘争に埋没し、国民のためという「大義」を掲げる人間がいないことが残念である。

ラベル:野望篇 SP
posted by 定年オジサン at 11:51| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月01日

芋虫

一般に「戦争映画」を大きく分ければ、「戦争賛歌・礼賛」グループと「戦争反対」に大きく分けられるだろう。
 
オジサンはこれまでにもいくつかの戦争映画を見たが、少なくとも「礼賛」映画は見た事がないし、見る気もしなかった。
 
といっても、戦争の悲惨さ・残酷さを「これでもか、これでもか」と画面いっぱいに映し出す「戦争反対」映画も余り関心がない。
 
むしろ、直截的ではない表現による「戦争の虚しさ」「戦争のあほらしさ」「戦争の無意味さ」を表現する映画を好む。
 
戦争映画ということをほとんど意識せずに最初に見た「戦争反対」映画らしきものが「肉弾」。
 
入った映画館は新宿文化という「ATG」の映画を専ら上映していた映画館であった。
 
岡本喜八監督の「肉弾」が最初に上映されたのが1968年。
 
当時18歳だった
大谷直子のデビュー作でもある。 
 
実際にオジサンが見た年は大学に入った年だった。 
 
オジサンと同い年の話題の大谷直子の「
全裸シーンがあるそうだ」という悪友の言葉に誘われて付いていった。
 
大変不純な動機であったが、事前の予備知識なんて全くない状態で見た映画でもあった。
 
多くの専門的なブログにも紹介されているが、大まかな
ストーリーはこんな感じであった。
 
*************************************************
 
 主人公は「あいつ」・寺田濃、名前はない。「あいつ」は瓶底眼鏡の痩せっぽちインテリ学生。毎日手榴弾を抱いて上陸してきた戦車に特攻かけるべく砂浜に掘ったタコツボで訓練を受けている。
 
 ・・・・中略・・・・
 
 いよいよ敵軍上陸と思われる前日、外出を許された「あいつ」は爆撃で両手を失った古本屋の親父・笠智衆から「美しい、観音様みたいな女房・北林谷栄との出会い」を聞いて感激する。「あいつ」は女郎屋で美しい少女「うさぎ」・大谷直子と出会う。
 
「あいつ」は「うさぎ」と結ばれた。「あいつ」はやっと「これで何のために自分が死ぬのか」分かった!と叫ぶのだった。
 
 「うさぎ」の住んでいた町に空襲があり、彼女は溶けて死んでしまった。タコツボ作戦は変更され「あいつ」は魚雷にくくりつけられたドラム缶に入って敵艦隊の上陸に備えることになった。太陽がさんさんと照りつける中で、いつ来るか分からない「艦隊」を迎かえ撃つべく「あいつ」は沖へ出て行く。やっと発見した敵の「船影」めがけて魚雷発射!と思ったらブクブクと沈んでしまう。
 
 敵艦と思ったのは実は東京湾に糞尿を投棄するための「おわい船」であった。「船長」・伊藤雄之助が「あいつ」を発見する。「戦争、おわっちゃったんですよ」と言う「船長」に頼んで陸まで引いてもらう途中、ドラム缶のロープが切れてしまう。
 
 場面が変わって昭和43年(現代)、そこは若者たちが楽しげに遊んでいる海岸だ。モーターボートが奇妙なドラム缶を発見する。そこに「あいつ」はいた。白骨化した「あいつ」はまだ叫び続けている。「バカヤロー、うさぎのバカヤロー、戦争が終わったんだって?バカヤロー」と。
 
 ・・・・後略・・・・
 
*************************************************
 
 
衝撃なラストシーンを見終わった後は、大谷直子のシーンなんて吹っ飛ぶような強烈な感覚に襲われた。
 
「ああ、これが戦争の馬鹿らしさなのか、惨さなのか」と。
 
19歳のオジサンにとって最初の体験だったかも知れない。
 
それから41年、オジサンは久々に個性豊かな監督の話題の映画を見た。
 
「肉弾」を見た時からはかなり年数も経ち、映画の事前の情報も氾濫している中での鑑賞であった。
 
監督の若松孝二は「ピンク映画の黒澤明」などと形容されるような監督だが、連合赤軍をテーマにした作品『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007)のような硬派な映画も撮っており、単なるピンク映画監督ではない。
 
その映画「
キャタピラー(芋虫)」の評判も、芸能マスメディアではベルリン国際映画祭・最優秀女優賞(銀熊賞)に輝いた寺島しのぶ(37)の体を張った演技ばかりが先行していた。
 
しかし、若松孝二監督が寺島しのぶの裸を売り物にするような映画は撮らないだろうと思って最後まで見続けた。
 
どのような「反戦」映画になっているのかと興味深かった。
 
映画のストーリーは非常に単純なもので、当時は日本中に存在した「傷痍軍人」の妻のその後の生き方を中心とした物語。
 
しかし今までの戦争映画と少々違うところは、夫が単なる傷痍軍人ではなく、手足が切断され、顔面の半分は焼けただれており、声帯も耳も損傷しているという、恐るべき姿であり、さらにその夫との異常な夫婦関係が存在していたということであった。
 
家の外では村中から「軍神」と崇め奉られる夫が、家に戻れば旺盛な食欲と性欲の塊と化す。
 
戦場で手柄を立て天皇陛下から勲章を授かった立派な「軍神」も、男の本性丸出しの人間として描かれる。
 
それに対して夫の食欲と性欲を満たすためにけなげに奉仕する妻。
 
決して夫には逆らえない戦禍の当時の日本の夫婦の関係。
 
しかしその夫も、本人の過去のフラッシュバックの中で、戦地で中国人から強奪し強姦し強殺した日本軍の兵士であり、中国女性を襲ったときに見舞われた火災によって顔にやけどを被ったことが明らかになる。
 
そして偽りの「軍神」の夫の性欲がなくなった頃、反対に妻が夫に激しく求める。
 
夫は妻の顔が中国女性にオーバーラップされ逃げ惑う。
 
オジサンはこの映画を見終わった後、戦争の残虐さやあほらしさなんかを感じなかった。
 
「軍神」や「勲章」や「御真影」などという天皇支配の男社会が起こした戦争の遺物から、逞しく活きなければならない女性が、妻として仕えた不自由さから衝撃のラストシーンによって解放されるという、男女の世界を垣間見た気がした。
 
そう、この映画は「反戦映画」ではなかったかもしれない、とオジサンは映画館をでる時に確信を持った。
 
ラベル:軍神 御真影
posted by 定年オジサン at 08:19| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする