2017年07月18日

親子2代で教育を食い物にしてきた加計父子

内閣支持率の大幅な下落により、行き先不透明になった安倍内閣。
 
しかし国政選挙が目前に迫っているわけではないので、自民党内からは「安倍降し」の声は上がっていない。
 
期待していると答えた国民はかなり少なかったようだが、8月3日の内閣改造の世論調査結果が現状維持(30%未満)であれば事態は急変する可能性もある。
 
都議選での自民党の歴史的大敗は、安倍内閣の政策ではなく安倍晋三個人の資質の問題であると見る政治評論家が多かったのだが、現実には決して安倍政権の経済政策が順調とは言えない 
  
2012年に政権奪回し第一次安倍内閣を発足して早や5年。
 
マスメディアに囃し立てられて「アベノミクス」と命名されいい気になって、「デフレ脱却」のため「異次元の金融緩和」を行い、日銀に紙幣を大量に印刷させて、見かけの高株価を演出させた。
 
その株価の下落を支えるために2014年10月に国民の貴重な公的年金の一部を国内株式に投資し始めた。
 
そしてさらに新たな投資を行うという。  
 
<公的年金、新型運用を始めた「ひそかな」理由 >
 2017/7/18 6:30 日本経済新聞 電子版
 厚生年金、国民年金など公的年金の積立金約145兆円を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が、ESG投資と呼ばれる新たな手法に取り組み始めた。ESG投資は環境(E)への配慮や、社会(S)的な課題への取り組み、企業統治(G)に優れた企業を選び出して運用をするもの。GPIFはこれに基づいて2017年6月末までに既に1兆円を日本株に投資しており、今後数年で3兆円程度まで増やしていくという。
 ESG投資は欧米で先行しているが、日本ではこれから。高橋則広・GPIF理事長は「ESGは長期的に価値を増大する企業への投資。収益も期待しているし、相場全体が下がった時に歯止めになるとも考えている」と長期的な収益拡大が見込める点を強調する。
 しかし、GPIFの運用を別の側面から見ると、ESG投資には高橋理事長の説明とは異なる役割が透けて見える。背景にあるのは、GPIFの運用が今、曲がり角を迎えていることだ。
 12年末に安倍晋三政権が誕生して以後、GPIFは運用方針を大きく見直した。それまでは資産のうち、60%を国内債券、11%を外国債券、国内株と外国株に12%ずつを投じていたのを14年10月以降は一転。国内株と外国株にそれぞれ25%ずつ、国内債に35%、外国債に15%と、リスクを取る運用に大きくかじを切ったのである。
■国債投資しにくく運用の壁に
 株式の比率を高めたことで運用成績の変動幅は大きくなった。全資産の総合収益率は、14年度に12.27%と大幅プラスになったが、翌15年度は3.81%のマイナスに転落。16年度は5.86%のプラスだった。また成長企業でなくても株価が上昇するというゆがみが一部銘柄に目立つようになってきた。国内株に投じる資金の約9割を株価指数などに連動するよう広く薄く投じる方法を採っているためだ。
 運用方針の転換から2年半以上が経過し環境は大きく変わった。16年度末時点で日本株比率は23.28%に達し、基本ポートフォリオの上限である25%に近づいてきた。一方、かつて運用の中心だった国内債は31.68%。基本とする35%を割り込んでいる。日銀のゼロ金利政策で「国債投資がしにくい」(高橋理事長)ためだ。適当な運用先が限られるようになった結果、総資産に占める現金比率が上がっている。運用は一つの壁にぶつかったのである。
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 ESG投資は、GPIFの試算でもTOPIX(東証株価指数)連動型の運用より0.39ポイント上回る程度と見込まれ、実際にはさほど高くはない。ただ「優良企業への選別投資」という名目で、運用の壁を越える「口実」にはできる。GPIFには状況に応じて国内株の比率を基本の25%から9%分増減できるルールもある。ESG投資で国内株を拡大できれば、増やせない国債投資の“代替”になるし、市場にゆがみをもたらしているとの批判もかわせるというわけだ。新型投資には、こんな側面もうかがえる。 
 
安倍政権のバックボーンは国政選挙の連勝と高支持率、そして株価であった。
 
先の都議選で国政選挙並みの力を注いだにもかかわらず、安倍晋三自身の「嫌われ度」により歴史的惨敗し、内閣支持率も危険水域の30%を下回り始めた。
 
これでこれ以上株価に期待できなければ政策的にも安倍政権は終焉を迎える。
 
安倍晋三の「嫌われ度」が増大したのは40年来の腹心の友に対する、行政をゆがめてでも行った「利益・便宜供与」である。
 
その加計学園の傘下の岡山理科大の「獣医学部」について、その学力レベルに大きな疑問を呈していた記事があった。
 
加計学園の獣医学部新設はどれほど馬鹿げているのか、系列大学の偏差値や四国の実態から考えてみた」によると、以下のとおりである。
 
岡山理科大学で獣医学部と関係のありそうな学部学科の偏差値はわずか35〜45。大学全体を見渡しても偏差値50に満たない学部が多く、学科によってはボーダーフリー(偏差値が付けられない水準)となっているのが現状.
●理学部
・生物化学:37.5
・臨床生命科学:35.0
・動物:45.0
●・工学部
・バイオ・応用化学:40.0
 
ちなみに加計学園系列の千葉科学大学の偏差値はもっと低く、大学を構成する薬学部・危機管理学部・看護学部すべてが偏差値35〜40。
「多くの獣医学部・獣医学科は農学部を基点としていること」。大学ないしその前身となった学校が地域の農業、畜産に携わってきた流れの中で生まれたケースがほとんどです。
◆獣医師不足を理由に獣医学部を新設するとしても、加計学園である必要は一切無い
そして今回、加計学園に獣医学部を新設する大義名分として「四国に獣医学部・学科が無いこと」「獣医師の不足」「鳥インフルエンザなどの人獣共通感染症が拡大する中、需要が高まっていること」などが挙げられていますが、これもおかしな話。
なぜならば四国には、かねてから地域の農業、畜産業に根ざした研究活動を行っている愛媛大学や香川大学の農学部があり、これらの大学に獣医学科の設置を認めた方が合理的であるからです。
つまり、農学や医学分野で実績があるわけでもない加計学園に全国の獣医学部、学科の定員の2割近い160〜170名規模の獣医学部を作らせる合理的な理由はどこにもなく、馬鹿げていると言わざるを得ない

 
要するに、国会でも話題になった安倍内閣が閣議決定した特区における「4条件」以前の問題で、「獣医学部を作らせる合理的な理由はどこにもなく、馬鹿げていると言わざるを得ない」ということである。
 
さらには、「加計学園に文科省が5年間補助金支給へ、系列2大学が奇跡的な確率で『私立大学研究ブランディング事業』に選定」によると、偏差値が付けられないボーダーフリー・定員割れの学部学科を数多く抱える加計学園のみ系列の大学が2校選定される奇跡的な事態となっているという。
 
どうやら学校経営とはそんなにうまい話なのか、下図を見てもらいたい。
 
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現代ビジネスが三部構成で加計学園の知られざる前史から現在の「疑惑」に至るまでの歴史をひも解いていた。 
    
<「加計学園とは何者か 特別長編レポート「学校経営を家業にした一族」」
 第一部 学園創立者・加計勉という男>
 2017.07.17 現代ビジネス
 加計学園(かけがくえん)の獣医学部新設に関する疑惑をめぐり、ついに安倍総理が自ら国会の閉会中審議で説明する意向を明かした。いまや加計学園の名前、そして理事長の加計孝太郎氏の顔は、メディアで連日報じられている。
しかし、「加計学園問題」ではいったい何が「疑惑」とされているのか、今ひとつわかりづらい。また、約2万人の学生が通う「西日本有数の私学」である加計学園がどのような学校法人で、理事長の加計孝太郎氏がどのような人物なのか、その全貌を知る人は少ない。
全三部構成の本レポートでは、加計学園が過去にまとめた資料をひもとき、さらに関係者に取材を行って、学園の知られざる前史から現在の「疑惑」に至るまでの歴史を追う。視点を変え、学園の過去を明らかにすることで、ことの本質を浮き彫りにするためだ。
第一部は、加計学園創立者で孝太郎氏の父である加計勉(つとむ)氏の前半生と、その人脈、学園創設に至るまでの経緯をたどる。
加計という名の町
岡山城のふもとにある、日本三名園の一つ・後楽園。岡山県岡山市北区に位置し、総面積が東京ドームの約3倍もある名勝地のほど近くに鎮座しているのが、今年、創立53年を迎えた岡山理科大学だ。所在住所は「理大町1丁目1番地」。この大学が地域とともに発展してきたことが住所からもうかがえるが、この「理大町1丁目1番地」の岡山理科大学内に、加計学園の本部は置かれている。
3つの大学を擁し、いまや岡山県のみならず、西日本を代表する巨大私立学校法人となった加計学園。しかし、実は加計一族の源流が、岡山県ではなく広島県にあることは知られていない。
瀬戸内海に面した穏やかな港町、広島県東広島市安芸津町(あきつちょう)。加計学園の創設者である加計勉氏は、この地で1923年(大正12年)3月に生まれた。
安芸津町の北部、山間の一帯には現在も「加計(かけ)」という地名が残っている。加計家は地元でも有名な大地主で、勉氏は分家筋の生まれ。大正期には、本家から郡会議員も輩出したという(当時、安芸津町は豊田郡に属していた)。地元の歴史に詳しい古老が証言する。
「加計家は商家というわけではなく、近隣の水路工事や土地開発を行い、財をなして地主になりました。ところが戦後の農地改革で、所有していた土地のほとんどを手放した。現在は本家も分家も取り壊され、この辺りに加計家の人は住んでいません。勉さんのご実家の跡地は、加計学園の研修所になっています。加計家の源流は広島県北部の安芸太田町加計にあるという説もありますが、定かではありません」
勉氏は広島県立忠海(ただのうみ)中学校(旧制中学。現在の広島県立忠海高校)を卒業後、教員を志し、1941年に広島文理科大学(戦後に広島大学に吸収)附置・広島高等師範学校へ進んだ。旧制中学進学率が1割前後の時代である。勉氏が将来の日本を支えるエリート候補生だったことがわかる。当時の勉氏の様子を、学友がこう証言している。
〈「同級生に顔が長くて顔色がすぐれず、筋骨薄弱でいかにも陰の薄いのがいた。誰いうともなく、”うらなり”のあだ名がついた」〉(鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』IN通信社、2011年より)
高等師範学校を修了した勉氏は、一時は兵庫県立姫路工業学校の教諭も務めたが、教育召集がかかり従軍を余儀なくされた。病弱だった勉氏は、前線ではなく福岡県小倉の航空機工場での勤務を命じられた。
囲碁が趣味だったというおとなしい青年が、一変したきっかけは終戦である。
太平洋戦争末期、米軍の原子爆弾によって、故郷・広島が蹂躙された。さらに前述の通り、実家の加計家も農地改革によって土地を取り上げられることとなった。広島に帰った勉氏が受けた衝撃は、想像にかたくない。
大学生が「大学を作りたい」
終戦後まもない1946年、勉氏は広島文理科大学の数学科に入り直すことを決意する。一念発起が実って、同年春に合格。再び母校へ戻った頃には、勉氏はすでに、大学の創始者になることを夢見るようになっていたという。
氏が自ら記した回顧録(『加計学園創立二十周年記念誌』1985年に収録)にはこうある。
〈私は広島文理科大学の数学科を卒業しましたが、在学当時、すなわち終戦後まもなくの頃ですが、大学で講義を受けながら大学のあり方について考え、また友人たちともこの事についていろいろと話し合ったりしたものです。
国立型の大学は非常に画一的と言いますか、(中略)もう少しリベラルな大学、言いかえれば、アカデミックな志向と高遠な理想を目指す雰囲気があっても良いのではないかと考えておりました。
何分にも学生時代の事ですから、そういう大学を自分自身の手で作ることができるとは考えてもおりませんでしたが、将来、機会に恵まれれば、そのような学校をぜひ作ってみたいと思っておりましたし、自分で作るとすれば、私学でないとできないような大学というものに一種の憧憬を抱いてもおりました〉
広島文理科大学を卒業後、勉氏は1年間だけ、広島大学東雲分校中学校 (現・広島大学附属東雲中学校)の教壇に立った。しかしすぐに教職を辞して会社を興し、〈三、四年の間教育出版事業に専念しておりました〉(前掲の回顧録より)という。おそらくはこの起業のとき、勉氏の胸には20代半ばにして、すでに大学設立への道筋がぼんやりと浮かんでいたのではないだろうか。
そもそも、何が問題なのか?
さて、ここで視線を現在の加計学園に戻してみたい。いまや野党やマスコミが「加計学園問題」と呼ぶようになった一連の騒動だが、いったい「何が問題なのか」は判然としない。そもそも、「どこにも問題はない」という見方もある。自民党や政府、安倍晋三総理はこうした立場だ。
あえて細部を省いて、経緯をなるべくシンプルに整理してみよう。
加計学園の現理事長で、勉氏の長男である加計孝太郎氏は、安倍総理と30年以上親交をもつ友人である。この点は、安倍総理も自ら認めている。2人は1970年代、留学先のアメリカで知り合って親しくなり、現在もときには安倍昭恵夫人を交えて会食やゴルフに出かける間柄だ。
その孝太郎氏率いる加計学園が、2018年春開学予定で、愛媛県今治市に新たに「岡山理科大学獣医学部」を開設する。開設にあたっては愛媛県と今治市が総工費の半額、計96億円を上限として、校舎建設費や施設整備費を負担する予定になっている。
加計学園は、かねて獣医学部開設を希望していた。愛媛県や今治市にとっても、地域の活性化を狙った大学誘致が長年の希望だった。獣医師の増えすぎを防ぐため、獣医学部の新設は制限されているが、この規制は2016年に今治市が国家戦略特区に指定されたことで撤廃された。
ひと言でまとめれば、特定の政治家=総理と親しい学校経営者が、巨額の税金が投入される事業を進めるお墨付きを得た、ということになる。
手続きに瑕疵はない。法的にも問題はない。しかし倫理的にはどうなのか。不公平ではないのか。加計学園「問題」が存在するという立場の野党・マスコミ・そして国民は、こうした疑念を抱き、憤っている。
だが、加計学園の歩んできた軌跡を丹念に追っていくと、学園創立者の加計勉氏もまた、中央政界や行政とのかかわりをきわめて重視していたことがうかがえる。
半世紀以上にわたる学園の歴史から見えてくるのは、今も昔も、巨大な私学を作り上げるためには、行政との関係構築や根回しが欠かせないという事実だ。この点を明らかにするのも、本稿の大きな目的である。 
池田勇人・宮沢喜一とのコネクション
話を若き加計勉氏に戻そう。実は勉氏が通った忠海中学校は、第58〜60代内閣総理大臣を務めた池田勇人氏の母校でもあった。池田氏は勉氏とは親子ほど年の離れた大先輩にあたるが、勉氏は池田氏の自宅や事務所をたびたび訪れていたようだ。
そうした中で、当時蔵相だった池田氏のもとで秘書官を務めていた、4歳年上のエリート大蔵官僚と親しくなる。
のちに蔵相、総理などを歴任した宮澤喜一氏である。
宮澤氏は政治家として大成してから、加計学園の周年記念式典に必ず参加するようになった。前掲の『二十周年記念誌』にも、祝辞が掲載されている。その中で宮澤氏は、勉氏との親交についてこう語った。
〈(勉氏は)広島県出身でなくなられました池田勇人元総理大臣が卒業されました中学の後輩になられるわけでございます。
そんなことから、終戦後まもなくよく池田さんのお家にお越しになっておられまして、私がちょうど秘書官をしておりましたが、たぶん加計理事長が広島の高等師範をご卒業になり、広島文理科大学をお出になって数年のことだと思います。
今から二三年前(注・33年前の誤りと思われる)でございますけれども、その頃からお近付きをいただくようになりました。(中略)お宅でご馳走になったり、東京にお出でになればご一緒したり、大事なお友達として三十年間過ごしてきました〉
二人の関係は「大事なお友達」にとどまらず、勉氏は宮澤氏の後援会会長も務めた。しかし、勉氏も宮澤氏もすでに世を去って約10年になる。今となっては、両者の実際の交わりを知る者はほぼいないが、おそらくは宮澤氏を通じて、勉氏は当時の永田町の最重要人物である池田氏とも交流を保っていた。
勉氏自らこうした人脈を喧伝しているわけではないものの、当時を知る同僚が興味深い記述を残している。時系列が前後するが、勉氏がのちに岡山電機工業高校(岡山理科大学附属高校の母体)を設立した際の、開学式典でのひと幕だ。
〈式典の途中、学園の将来計画に大学の存すること(注・勉氏が挨拶でそれに言及した)、忠海中学の大先輩池田勇人総理大臣の祝電披露に際し、生徒の中より自嘲にも似たどよめきが起こり、将来を祝うべき席で関係者一同大いに気を沈めた〉(河口通「創造の学園『加計学園』」、前掲『二十周年記念誌』特別寄稿文より)
岡山電機工業高校が開学したのは、池田氏が総理在任中の1962年春。晴れの舞台に、かねて親交のある総理から祝電が届けば、それを新入生たちに読み聞かせてやりたいと思うのも人情であろう。
しかしどうやら、あまりに現実感がなかったのか、生徒たちは「自嘲にも似たどよめき」でそれに応えた。具体的に生徒が何を口にしたのかについて記録は残されていないが、勉氏はこのさまを目の当たりにして、大いに落ち込んだという。
教員を辞した当初、教育出版事業を興した勉氏だが、前述のように数年でその事業をたたみ、今度は大学受験予備校設立のために動き始めた。現在も加計学園グループの学校法人にその名を残している「広島英数学館」を広島市中心部に設立したのが、1955年春のことだ。
なお、このとき設立認可を下ろした広島県でカウンターパートを務めた県職員・細川昇氏は、のちに加計学園常務理事に迎えられた。広島英数学館の建物は現存しており、現在は加計学園系列校の並木学院高校の校舎として利用されている。
当時、西日本の大学受験予備校といえば、大阪に本拠を持つ大阪YMCAの独擅場だった。だが勉氏が述懐するところによると、広島英数学館は数年で県下トップクラスの進学実績と評判を得るほどに成長したという。勉氏は、広島大学の教員を務めていた知人たちを、予備校の講師として頼ったことを明かしている。
「学校新設は難しい」と言われて…
勉氏が「岡山予備校」を設立し、ついに隣県の岡山県へ進出したのは1960年春。先にも触れた加計学園最初の一条校(注・学校教育法第一条で定められている狭義の「学校」)である岡山電機工業高校が開校したのはわずか2年後の1962年春だから、岡山予備校の設立時点で、勉氏はすでに念願の私学設立に向けたロードマップを描いていたとみて間違いない。
もしかすると勉氏にとっては、当初から、予備校経営も私学設立に向けて資金やノウハウを得るための「ステップ」という位置付けだったのかもしれない。
現在、今治市での岡山理科大学獣医学部の設立にあたっては、加計孝太郎・現理事長が、文科省や関係閣僚のもとを何度か訪れていたことが判明している。ただし私学の設立を実現するため、私学側のトップが行政の担当者詣でをすること自体は、決して不自然な話ではない。1961年の勉氏もまた、岡山県の学校新設担当者のもとに通い説得に励んだ。
 その時の貴重な証言が残されている。当時、岡山県庁の私学担当係長を務めていた畑忠雄氏という人物が、前掲の『二十周年記念誌』に以下のように記しているのだ。重要な記述なので、少し長くなるが、畑氏と勉氏のやりとりを引用する。
〈昭和36年(1961年)のある日、加計学園理事長と名乗るひとりの紳士の来訪を受けました。お会いしてみると、岡山市内に電気関係の工業高校を新設したいというお話でしたが、この頃、岡山県は高校進学生徒数減少期にあって既設高校の充実や入学定員のことなど多くの問題点を抱えていた時期であったので、高校新設は難しい旨を説明しました〉
やんわりと新設申請を退けようとした畑氏に、勉氏は「日本はいま工業立国をめざしている。私は立派な人材を産業界に送り出したいのだ」と意気込みを滔々と語りつつも、いったん引き下がった。
時をおかずして、勉氏が再び岡山県庁を訪れた際にも、畑氏は「お考えはわかりました。しかし、資金的裏付けが十分でなければ絵に描いた餅になってしまう」と、やはりすげない答えを返した。
これに対して、勉氏は驚くべき言葉を返す。
〈「私の理想とする学校を作り上げ、軌道にのせるためには一切の私財を投げ出す決心をしておりますので、十分運営できると確信があります」〉
わずか数ヵ月で「逆転認可」
畑氏によれば、このひと言が県庁を動かし、ゴーサインを出させるきっかけになった。事実、前年の1960年夏に勉氏は私費で岡山市街地北側の小高い丘、半田山の頂上付近およそ5万平方メートルを購入している。戦前戦中は旧陸軍練兵場が、戦後には自衛隊駐屯地が置かれたこの一帯は、当時は木々が鬱蒼と生い茂り、水はけの悪い原野だったという。
1961年9月、岡山県私学審議会会長の高畑浅次郎氏が広島の英数学館本部を訪れた。ちなみに高畑氏は岡山一中(現・岡山朝日高校)校長も務めた人物で、スタジオジブリ所属の世界的アニメ作家・高畑勲氏の父である。
すでに予備校の経営状況と資金繰りの調査、勉氏の身辺調査は済んでおり、高畑氏も「大局的見地から検討してみたらどうか」との積極的見解を示した。しかし、私学審議会での議論は紛糾する。再び畑氏の証言。
〈予想されたように委員の間からは入学定員のからみや申請内容の実現性などの問題点について意見が続出しました。しかし設立者(注・勉氏)のよりよい私学創設への情熱に加えて周到な開設計画と、その実現性などが認められ「可」の結論が出されました〉
「学校法人加計学園」が生まれた瞬間だった。
勉氏が私財を投じて買い取ったという丘の上には現在、岡山理科大学とその附属高校・中学、そして加計学園の本部がおかれている。その言葉通り、予備校経営で得た莫大な資産をほぼ全て費やし、勉氏は私学創設に人生を賭けたのである。のちの加計学園の威容を見れば、その賭けは成功したと言えるだろう。
勉氏が県庁を初めて訪れてから、学校設立認可が下りるまでの期間はわずか数ヵ月。その間に、県庁と私学審議会でどのような調査・検討がなされたか、また水面下でどのような根回しが行われたのか、今となっては知る術がない。
ただ、「審議会では議論が紛糾したものの、最終的には『スピード認可』が下されて学校設立が実現した」という経緯は、現在「問題」とされている、森友学園の小学校開設や、加計学園の獣医学部設置の決定プロセスに通底するものがないとは言えない。勉氏をはじめとする加計学園の関係者らの間で、このときの「成功体験」が、彼らのその後の方針や動き方に、大きく影響したのではないだろうか。
(7月21日公開の第二部に続く)
 
加計孝太郎の父は教育者から出発したのだが、最後は「教育ビジネスマン」になっている。
 
それを引き継いだ加計孝太郎理事長は親父のやり方をつぶさに見て育ち、最初から「教育ビジネス」に邁進したのであろう。
 
そして親父と同じ『スピード認可』を勝ち取った裏の実態を今後は明らかにする必要があるのであろう、とオジサンは思う。

posted by 定年オジサン at 12:30| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 加計学園疑惑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする